選択肢
活き活きと澄んだ目。優しさと悪戯っぽさが同居しているような眼差し。権威主義など微塵も感じさせない率直な物言い。初診なのに「遠いしね、(生薬は)とりあえず6週間分出しときますか」と事もなげに言われた。この医師なら夫の状態を改善できる、と確信した。
夫は腎不全で人工透析寸前の状態である。医大薬学部の教員をしていた夫の妹が「漢方で腎不全に卓効をあげている病院がある」と教えてくれた。京都の高雄病院である。 クレアチニン値が6から2.6にまで下がり(正常値の上限は1~1.1)、透析を免れたという例が載っている。
腎不全は西洋医学では治療法がないと言われている。断食・生菜食療法で癌を始め、様々な難病を治している甲田光雄医師ですら、食事療法で透析は延ばせても透析になったら西洋医学に任せるしかないという。
5週間後、地元の病院で検査をした。3.8だったクレアチニン値が3.3にまで下がリ、他の数値も顕著に改善している。服薬して2週間後くらいから、寒がらなくなり、起きている時間が長くなった。以前はどんなに暑くてもクーラーも使えず、ジムから戻るとほとんど1日中寝ていることが多かった。数値から全身状態が良くなったことがあらためて実感できた。
6週間後、主治医となった院長の江部洋一郎医師の診察を受けた。夫の腎臓機能は正常な腎臓の9分の1にまで下がっていた。死んだ細胞は元には戻らないが、生と死の中簡にある細胞が生薬を服用したことで活性化したのだという。このまま3~4のクレアチニン値を維持していければ、透析を免れるかもしれない。
食事制限は当然続けなければいけないが、たまには少しなら好きなものを食べてもいいと言われた。塩分の制限も辛いが、それよりも辛いのはカリウムの制限である。カリウムは野菜や果物に多く含まれる。水溶性なので煮こぼしたり一晩水につけたりするとかなり減少するが、カリウムを抜いた野菜は野菜本来の旨味がなくなってしまう。だしにもかなり含まれる上、塩分も制限されているので、汁物はほとんど取れない。江部医師が処方した生薬はカリウムの排泄を助けてくれる上、もしカリウム値が上がったら、煎じ薬に「甘草」を1パック加えればいい、という。大好きな果物もほんの少しなら食べられる。カリウム抜きに以前ほど神経質にならなくてもよくなったのでカレーもけんちん汁もおいしく作れるようになった。少しならおいしい汁も飲めるようになったのである。
帰りのバスで江部医師の元で重度のアトピーが完治した女性と一緒になった。江部医師は西洋医学は心理学まで、東洋医学も鍼灸等他のさまざまな分野まで勉強された上で総合的に診断されるという。中国人の弟子もいるほどの腕で、天賦の才能が感じられる見事な匙加減である。
甲田医師の断食・生菜食療法で高血圧を治した夫だが、腎不全の食事療法はやれないという。クレアチニン3の食事は朝食に蜂蜜を40グラムも取らなければならない。3食とも玄米で麺類は取れない。甘いものが嫌いな夫には、まず毎朝蜂蜜40グラムについていけない。白米と麺類が大好きで、毎食玄米の主食にも耐えられない。美味しいものが大好きで好き嫌いが激しい夫には甲田医師の食事療法はできない。まもなく透析になるだろうと覚悟していた矢先だった。
運動不足による体調の悪さからとうとうジムに通い始めた夫は、早足で1時間歩き、汗を多量にかくと体がすっきりすることに気づいた。汗と一緒に老廃物も排出されるからだ。毎朝1時間歩かないと体が持たない、歩くのは自分にとっては透析のようなものだ、と言う。ほとんど動かなかった夫の体には柔軟性がなくでくの棒のようで、歪みも酷い。このままの姿勢で歩き続けたら足腰を痛めてしまい、歩けなくなってしまう。姿勢の矯正にピラティスを、足腰の強化に太極拳をやらせることにした。もちろん私も一緒である。太極拳にはすぐ慣れたが、ピラティスは退屈で嫌だという。なだめすかしながらやらせているうちに1年半が過ぎた。歪んでいた姿勢もかなり矯正され、背中も伸びて来た。太極拳のインストラクターは「始めの頃は頭にしか実体がなく下半身は幽霊のようだったけど今は足がしっかり地についていますね」と感に耐えないといった感じで何度も言う。ジムの仲間たちにも「始めの頃は前につんのめっていて転んだりしたら大変だなとはらはらしていたけど、今は背中も伸びて足元もしっかりしてきましたね」と会う度に言われる。
我々はもし癌になったら、断食生菜食にし、それでも治らなかったら寿命だと受け入れようと話合っていた。しかし、他にも選択肢はあったのだ。
江部医師が処方した生薬には甘草が含まれている。夫にはその甘さがかなり堪えるようだ。毎回「飲むには相当の覚悟が要るよ」と嘆きつつ、それでも長い時間をかけて流し込んでいる。


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