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2008年1月

2008年1月 9日 (水)

命と向きあう

 腎不全の夫は透析を回避する方法を模索していた。透析はあまりにも心身の負担が大きいからである。近所の病院の若い主治医は血圧の管理や貧血の防止等、いくつかの治療をしようとしたが、我々を納得させる説得力がなかった。彼の処方する薬にも納得がいかず拒否するようになった。それには理由があった。
 数年前、夫は痒みに耐え切れず近所の病院の皮膚科を受診した。内服薬も塗り薬もまったく効かず、症状はむしろ悪化したが、医師は薬の量を増やすだけだった。次第に体力がなくなり、終いには尿が出なくなった。薬をやめ玄米菜食療法に切り替えたところ、痒みは少し収まり、体力も回復した。今になって思えば、その痒みは腎不全からくるものだったのに、医師は内臓の検査もせず闇雲に強い薬を処方し続けたのである。このことがあって、この病院の医師が出す薬には用心するようになった。田舎では病院の選択肢がほとんどなく、腎不全の治療も同じ病院で受けるしかない。主治医が出した降圧剤は副作用がひどく、服用すると無気力になって1日中寝ているような状態になり頭も働かなくなった。
 また、腎不全期の治療で一番問題になるのは食事療法である。主治医には栄養学の知識がなかった。栄養士の指導も受けたが、到底納得のいくものではなかった。食事の管理はやっていたが、今一つ自信がなく、腎不全はゆっくりとだが、確実に進行していった。

 去年の8月、漢方で腎不全の治療をする京都市の高雄病院院長江部洋一郎医師を知った。漢方の考え方を基に、現代中国医学の薬である中医薬も活用する独特の処方を行っている。透析の導入を遅らせることができるし、透析を離脱できる可能性もある、という。
 すぐに診察を受けた。処方された漢方でクレアチニン値がぐんと下がり、全身状態もよくなった。しかし、血圧は高いままである。高雄病院は川風市からかなり遠く、頻繁には通えない。血圧の調整は近所の病院でやるよう指示された。地元の病院の主治医が出す薬をこわごわ飲み始めたが、血圧は下がらなかった。

 そんなときに出会ったのが、保存期腎不全療法に関する本である。さっそく、著者である 
 T医師を訪ね、診断を受けた。T医師は断言する。「透析は人間の尊厳を傷つける。自分が透析をやったこともないのに、透析をすれば楽になりますよ、などと簡単に言う医師に怒りを感じる。慢性腎不全の治療が限界になり、透析を受けることになった人たちの中に『透析になってよかった』という人はいない」。
 T医師は慢性腎不全を進行させる因子を徹底的に突き止め、取り除くことで腎不全の進行を止める医療を編み出した。この治療は患者の自覚がなければ成り立たない、医師と患者の合意の下に行われる治療である。T医師に徹底的に学んだ栄養士の指導は完全に納得のいくものだった。この病院にはこのような栄養士が6人もいるという。1日蓄尿という方法で塩分や蛋白質の摂取量を医療的に突き止められたこともあり、食事管理に自信を持てるようになった。

 12月、高雄病院で診察を受けた帰りのバス停で腎硬化症で江部医師の治療を受けている男性に出会った。バス停は情報交換の場である。夫と同年齢のその男性は東北大学の心臓外科の清水先生の漢方治療を受けていた。2年前に先生がなくなり、漢方の服用をやめたところ、クレアチニン値が上がった。日本で唯一クレアチニン値を下げられる医師として江部医師を紹介され、治療を受け始めたところ、クレアチニン値が下がったという。血圧や尿酸値は近所の病院で調整し、札幌から1ヵ月半に1度通ってきている。透析になったら、腎移植を受けるつもりだが、日本では70歳以上は無理なので、大阪の斡旋組織を通して800万円で中国の死刑囚から腎臓を買うという。「生きのいい腎臓が手に入るんですよ」と刺身でも食べるように目を輝かせた。
 江部医師は現代医学はもちろん、他のさまざまな代替療法や心理学まで勉強されたという。漢方治療は証で見るので、腎不全以外の様々な病気も診ておられる。

 江部医師もT医師も患者の痛みに深く寄り添われる。T医師は年金でできる治療にしたいと言われる。江部医師の処方される漢方はすべて自己負担でも2万円あまりである。 

 我々は漢方薬を服用しながら、保存療法を受けることにした。
 自己顕示欲がなく、金にも執着がない夫は必要以上に働かない。好奇心が強く、何にでも首を突っ込み、自分の世界を広げてはいくが、それを形にする時間を作ろうとはしなかった。将棋にのめりこんでいて、かなりの時間を割いていた。しかし、田舎の将棋の練習場や大会会場はいまだに禁煙ではない。冬は暖房もあまり効いていなし、風邪をひいている人もいる。夏の冷房も体に堪える。風邪と煙草と寒さは腎不全の大きな進行因子なので、家にいるのが一番安全である。行動が制限されるようになったことで、仕事をする時間が増えた。自分の命と向き合うという、新たな世界も開けた。これまで蓄えてきたものが1つ1つ形になっていくのを見るのは楽しみである。

 

 

絶望

 近所に住む知人と日帰り温泉に行った。知人夫妻は東京出身で夫の定年後、田舎暮らしに憧れて川風市に移り住んだ。田舎の人たちは純朴だと思い込んでいた夫妻は川風市の不動産屋のカモにされた。地元の人なら決して買わない土砂が流れ込むような土地を売りつけられ、その土地に家を新築した。数年でそこに住むのを諦め、木の香が残っている家を売り、定期借地権つきの土地に新たに家を建てた。同じ不動産屋の仲介である。その不動産が「3軒目はどうですか」などといってきたという。昔は純朴な田舎の人が狡賢い都会人にやられる、というケースが多かったが、今や気のいい都会人が狡賢い田吾作にやられるということも起きるようになった。

 彼女の夫は亭主関白を絵に描いたような人で、川風市への移住も妻に一言の相談もなく決めたくらいである。彼女が溜まりに溜まった鬱憤を近所の知人に零したところ、「誰にも言わないから」と言われたにもかかわらず、あちこちに言いふらされた。人の不幸は蜜の味。洗練された都会人に対する嫉妬もあったのだろう。

 そんな話を大きな声で露天風呂で話していると、中年の女がおずおずと話しかけて来た。「すみません、聞くつもりはなかったのですが、聞こえてしまったので。昔から川風市に住んでいる方ではないんですね」。頷くと、「この町もそんな人たちばかりでもないんですけど」と控えめに言う。知人が他の人と話し始めると、その女性は私の腕を引き寄せ、小さな声で話し始めた。「川風市の公務員試験でうちの娘は19人中1番の成績だった、と言われたんです。面接試験に残ったのは6人なんですが、合格確実と言われていました。ところがその面接会場に1人の女が現れ、私に決まった、と言ったそうです。面接の内容も『食べ物は何が好きか』などというどうでもいいことばかりで、『地方行政にこのように取り組みたい』という娘の話には興味すら示さなかったんです。娘が『公平に見てください』と言うと『公平に見てますよ、ねえ』と互いに顔を見合わせたそうです。合格したのは面接会場に突然現れた女でした。こんなことになるんだったら面接なんかしなければいいのに。1週間ほど悔しさで腸が煮えくり返るようでしたが、誰にもいえません。川風市に古くから住んでいればどんな人とも何かしら繋がりがありますから。こんなことを今だにやっているのは川風市と隣の村くらいで、M市(県庁所在地)などではこんなことはないと聞きました」。
 川風市の職員はすべてコネでしかとらない、いうことは市民のほとんどが認めている。不況のあおりで優秀な人たちが公務員を目指すようになった。彼女の娘もその1人と思われる。しかし、コネで入った川風市の幹部にとって自分たちより優れた職員など要らないのである。

 彼女は見ず知らずの私に話すことで少しでも鬱憤を晴らしたのだろう。「川風市も変わらなければいけませんよね」と言った。泣き寝入りしないで、抗議しなさいよ、と言ってみたが、彼女は弱々しく首を振るだけだった。

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