無料ブログはココログ

オンライン状態

日記・コラム・つぶやき

2009年7月18日 (土)

ノラ

 年明けの3日、仔猫の鳴き声がした。残り物の魚をやると食べ、そのまま居ついてしまった。人を恐れる様子がない。外に出ると危ないくらい足に絡まる。迷子にでもなったのかもしれない。近所を尋ねてみたが、飼い主はいなかった。この辺に猫を捨てていく人がいるとも言う。夫にはアレルギーがある。家は平屋で庭に面した広いベランダがあり、そこで飼うことにした。穏やかな日が差し、庭に5本の大木がある。周りは耕作放棄の柿畑で、草が丈高く茂る夏は森の中のように涼しく扇風機もいらない。子猫は杉の木で爪を研ぎ、ガレージから屋根裏に入り込んだりと、野生も残しながら育っていく。屋根から下りられなくなったので下ろしてやった。翌日も屋根の上から鳴き声がする。下ろしてやろうと近づくと後ずさりして逃げる。あきらめて脚立を片付けたとたん、雨樋を伝って見事に降りた。「見て」と言わんばかりに得意気である。私に見せたかったのだ。

 恋の季節になった。夫は避妊手術は気が進まない、1回ぐらい生ませてやれ、と言う。腹が膨らんできた。ダンボールに古いシーツを敷いた産み箱をベランダに置いた。5匹生まれた。ノラは雉虎だが、白が2匹いる。前の晩白猫が来て2匹でベランダに長いこと座っていた。「ねえ、もう生まれるよ、どうする」。「大丈夫だよ。ここのうちで何とかするだろう。心配するな」。それ以来白猫は姿を見せない。
 「猫はたくさん仔を産むよ」と聞いてはいたけれど、まだ体も小さいし、せいぜい多くて3匹だろう、と高を括っていた。1日中乳を飲ませ、疲れると腹を出して延びてみせる。大変だねと撫でてやると目を細めて喉を鳴らす。
 眼も開き始めた頃、向かいの3年生の女の子に「仔猫が産まれたよ。見る?」と声をかけた。翌日から女の子は毎日通ってきて2時間近く仔猫と遊び、トイレの掃除もしていくようになった。飼いたいのだけど、お母さんが猫に恐怖感を持っていると言う。母親にも来てもらうと、小さい頃猫に威嚇され、それ以来怯えるようになったとのこと。こんな仔猫でも怖いの、と聞くと怖いと言う。
 1ヶ月が過ぎても里親は見つからない。女の子は母親の気持ちを察し、飼うとは言わない。乳離れしたので動物愛護協会に連れて行くことにし、母親に話すと1匹もらうと言う。「あの子があんなに熱心に何かやったのは始めてだし、もし飼ってやらなかったら、一生恨まれると思うから」。女の子は一番太った白猫を選んだ。「ホワイト」と名づけ、お姉ちゃんと取り合いで抱いている。お母さんも仔猫がこんなにかわいいなんて思わなかった、と言う。

 動物愛護協会には10数人が仔猫を連れてきていた。協会のボランティアの話では初子だときれいな仔が生まれるが、何回も産むうちにひどい器量の仔が生まれ、貰い手もなくなる、とのこと。ノラもかわいい顔をしているし、仔猫も皆かわいい。人になついている猫はすぐ貰い手がつく。貰い手は1時間近くカウンセリングを受け、去勢させて一生大切に飼い続けるという誓約書を出さなければならない。3匹貰い手がつき、一番小さな雉虎の雌が残った。
 避妊手術のため入院していたノラは帰宅するなり、狂ったように仔猫を探し回り、悲しげな声で鳴き続けた。仔猫が舐めると傷口がつかなくなり、再入院させて縫い直さなければならない。仔猫を家に入れるとガラス越しに求め合っていた。1週間後抜糸が済み、仔猫をベランダに出した。ノラは悲しげに鳴くこともなくなり、仔猫の喉に噛み付いたりして止めを刺すことを教えている。鼠を取っていた頃のDNAが残っているのだろう。しつこく仔猫にからんでいたが、1週間後、仔猫を放って出歩くようになった。雄猫を求めているのだろう。避妊手術後何匹も来ていた雄猫が1匹も来なくなった。3日ほど餌も食べずにうろついていたが、もう相手にされないとわかったのか出歩くのをやめた。1週間近くボーっと遠くを見ながら座っていたが、食欲も戻り、仔猫が絡んでいくとまた相手をするようになった。これまでのように積極的にではなく、しようがないといった感じだ。もう親の役目は終わったのだ。
 無邪気な猫だったのに今は鬱々としている感じがする。恨めしげに私を見ているような気がする。抱いてやるとうっとりと目を閉じ、喉を鳴らす。避妊手術に連れて行ったときも抵抗しなかった。人間には逆らえない、逆らってはいけないとでも考えているのだろうか。仔猫は無邪気に伸び伸びとベランダや庭を走り回っている。2匹とも庭を出ることはない。もう仔猫を産ませようとは思わないけれど、避妊手術のことを考えると憂鬱になる。

2009年7月17日 (金)

外反母趾

 脚が痛む。外反母趾が直りかけるとき痛みますが、心配ありませんよ、とヨガのインストラクターのI さんに言われている。
 3週間ほど前、Iさんに恥骨が下を向いていない、と指摘された。何度か手を添えて教えていただいても、どういうことかわからない。ジムでIさんと別のヨガ講座を持っているYさんに聞いてみた。YさんはIさんの娘だが、Iさんとはアプローチの仕方が違う。Yさんによると私の足は太腿まではまっすぐだが、膝から下が外側に湾曲していてそこから力が抜けているとのこと。「踝をつけ、膝を内側に下ろすように力を入れるといいですよ」。早速やってみると腰が入り、背筋がすっと伸び、恥骨も下を向き、足の親指に力が入った。吐く息で肛門を閉める、とさらに安定する。肛門を閉めて、と言われても今まではその感覚がつかめていなかった。これが正しい姿勢なんだ。丹田に力が入るとはこういう状態なんだ。外反母趾を直す目処がついた。
 パソコンで長時間仕事を続け、腰を痛めるまで自分の体には問題がないと思っていた。太っても痩せてもいないし、体力も柔軟さもある。いったいどこに問題があるのか。身体学に関する様々な本を読み、腰を立てることを意識するようになると状態は改善した。その後、ふとしたきっかけでIさんのヨガに出るようになり、Iさんに反り体を直していただいた。反り体にならないよう気をつけていると背中がまっすぐになって来た。体の歪みのひどさにも気づくようになった。最悪の歪みは外反母である。Iさんに痛みがなくても外反母趾は直したほうがいい。加齢につれ問題が起こってくるからと言われた。キネシオテープを巻いたり外反母趾矯正グッズをつけたりと努力したが、手ごたえは今一つだった。

 Yさんに正しい姿勢を教えていただき、忘れないよう姿勢を意識して歩き始めた。足の親指に力が入るということがどういうことか始めて体で理解できた。ぺたっとしていた尻が盛り上がり、腿や脚の外側についた肉も取れていき、踝がつくようになり、脹脛の内側に筋肉が移動した。顔も細くなった。
 若いときから緊張症でいつも肩が上がっていて精神が不安定だった。子どもを生み、年を経るごとに少しづつ落ち着いてはきたが、何につけてもどっしりと構えることができなかった。「臍下丹田に力を込める」という言葉は知っていても、どういうことなのか体では全くわからなかった。
 10年ヨガをやっている人に92歳の叔母さんの話を聞いた。「元気で頭もしっかりしていて歯も丈夫で入れ歯もないのに、腰だけが悪くて杖をついてやっと歩いているんですよ。腰ががたがたっていう感じ。ひどい外反母趾だからそれが原因だと思うの」。このまま外反母趾を直さず小指側に重心をかけたままでいたら、私もj彼女のようにいつか腰を痛めるだろう。いやもう痛めたではないか。
 正しい姿勢を保つのはまだまだきつく手探りの状態だが、60歳になっても姿勢は矯正できる。今は小学生にも外反母趾の子がいるという。日常生活で腰を据える機会がなくなっているからだ。野口体操の創始者野口三千三は「戦後は小学校でヨガを教えるべきだ」と言っている。正座で姿勢を正し、着物の裾が乱れないよう骨盤を締め親指で草履や下駄の鼻緒を踏みしめていた文化が次世代に伝わらなくなってしまった。現在90代以上の女性は経血を垂れ流すこともなかった。(三砂ちづる著『昔の女はできていた』『女は毎月生まれ変わる』より)
 ヨガは動的禅とも言われている。真剣にポーズを取ることで、自律神経が整えられ、心身が落ち着いてくる。IさんとYさんというすばらしい指導者との出会いは掛替えのない財産である。

2009年4月 7日 (火)

逃げおおせた

 「もう泥棒はいないよ」と風呂の更衣室で誰かが言っている。フロントに事情を聞いてみた。泥棒は3月いっぱいでジムを止めたという。 

 前にこのブログに書いたジムの泥棒が夜だけジムが使えるナイト会員から1日ジムを使える正会員に戻ってきた。正体がばれていないと思っている泥棒は以前同様愛想良く話しかけてくる。顔を合わせるたびに緊張が走った。再び盗難が相次ぐようになった。泥棒の存在を知らない新会員が狙われた。泥棒の正体を知っている会員たちは「今は木の芽時だから、活動が一層激しくなったんじゃない」と言っている。証拠がないから誰も名指しできない。私もカモになりかけている人を見て、「気をつけなさいよ」と喉元まで出掛かるのをぐっとこらえるしかなかった。
 
 たまりかねたジムは女性の更衣室や風呂場に張り紙をした。「盗難が相次いでいます。盗難にあわれた方は小額でもフロントにお届けください。何か情報がありましたら、どんなことでもお知らせください。私たちもスタッフも厳しく対処していくつもりです」とある。同時に泥棒がチエックインするとスタッフが張り付くようにもなった。とたんに泥棒はジムに来なくなり、とうとう止めた。夫も同時に止めた。夫婦共々正体がばれたと気づいたのだろう。夫は小学校の教頭である。古くからの会員たちは家族全部が彼女の盗癖を知っているはずだという。止めさせる手立てを取らなかった家族も共犯ではないのか。
彼女は10年間十分に稼いでうまく逃げおおせた。

 ジムは会員たちが互いに疑心暗鬼の状態になるのを避けたいと泥棒がいることを公表しなかった。泥棒は高を括ってしまった。泥棒とその家族に良心があるとは思えない。被害が広がり続けたのはそのためである。
 小泉改革を発端にアメリカ型社会になった日本には彼女のような人たちが増え始めた。ジムのスタッフが今回取ったような方法で厳しく対処していくしかない。

2008年11月 5日 (水)

一息

 ようやく1冊翻訳を終えた。259ページあった。薄い本ではないし、仮定法や比較や時制など日本語ではなじめない表現が多く文章も長い。助動詞が出て来ると文法書と首っ引きになった。はじめたのは1月だから10ヶ月かかったことになる。英語に触れるのは高校時代以来だった。ろくに勉強もしなかったので3単元すら忘れていた。夫が買ってくれた文法書を半年かけて読んでから取り掛かった。ボキャブラリーはないも同然だったので辞書を舐めるように読むしかなかった。夫は翻訳家として名を成している。まず何よりも正確に読むんだ、と何度も言われた。やってみてそれがどんなに大変なことかよくわかった。日本語で辻褄を合わせようとすれば簡単にできる。いわゆる「超訳」がたくさん出ているだろうなと思う。
 来年の4月には還暦になる。この年でこんな過酷な勉強をすることになるとは思わなかった。やり遂げることができたのは夫がすばらしい教師だったからだ。夫は一言一句ゆるがせにせず、間違いを徹底的に直してくれたので読解の密度に自信ができた。本の内容の面白さが早く次に進むよう駆り立ててくれた。
 日に6時間以上もパソコンに向かい続け尻が痛くなった。「しなくてもいい英語の勉強を止めるエクスキューズには事欠かない」が夫の口癖だ。夏樹静子の「腰痛放浪記」が浮かんだ。これは心の問題なのか。やるのが辛くてやめたいのだろうか。でもどんなに大変でも面白い。訳文がぴたりと決まったときは「数独」や「クロスワードパズルを解いたときのような喜びがある。腰痛は単なる体の問題だろうと考え、身体構造に関する本を読んだ。臍下丹田で体を支え、上から引っ張られているような意識で体を伸ばして座っているうちに痛みはなくなった。
 夫の入院中は夫の世話をしなくてもよくなった分だけ能率があがり、やった分を病院に持って行って見てもらった。北京オリンピックも何もかも遠い世界で新聞を読む時間と家事の時間以外はひたすらパソコンに向かっていた。目は飛蚊(ひぶん)症になり、神経の興奮で夜中に何度も目が覚め、眠りの質が極端に悪くなった。家事は気分転換も兼ねて完璧にやったが、それでもストレッチやウォーキング等で体を鍛えなければならなくなった。よく眠れると書いてあったので足揉みもはじめた。辞書を舐めるように読まねばならない基礎的な勉強は若いうちだったら苦もなくできる。しかし年を取ってからだと、頭はいくらでも先に進みたいのに、目が疲れてくると辞書の文字が読めなくなる。
 真ん中ぐらいまで進んだとき、終わるころには直されることもなくなるな、などと終わるのが楽しみだった。ところが、終わるころになっても間違いはいくらでも出てくる。一朝一夕では外国語はマスターできないことが思い知らされた。
 これからどうしよう。古希を過ぎ、透析を受けている夫は「英語の勉強は俺が元気なうちにやれるだけやれ」と言う。原稿を書くことに行き詰って始めた翻訳の勉強だけれど、原稿を書く力も鍛えてくれたと思える。中途半端になっている幾つかの原稿も仕上げたいけれど、ここまでがんばってきた英語の勉強はもう止められない。体力がある今しばらくのうちは、他のやりたいことを諦め集中しなければならない。いつか一息つけるだろう。

 夫は透析開始から5ヶ月経ってようやく落ち着いてきた。ぐったりと疲れて寝てばかりいたが、今は透析前よりはるかにいい状態だ。透析導入後の血圧や体重の調整には時間がかかる。食事も制限はあっても透析前より多くのものが食べられるようになった。透析を始めると尿がほとんど出なくなるので、汗で老廃物を排泄しないと体重の調整が難しい。決められた体重(ドライウエイトという)より5パーセントまでが抜かれる水の上限とされているらしい。それを超えると透析後が辛くなる。これ以上動脈硬化を進行させないためにも、透析の日以外は毎日ジムに通い、ウオーキングや整体や筋トレに励むしかない。好きなときに寝て好きなときに起きていた生活も透析にあわせて規則正しくなリ、私も楽になった。やっと一息。

2008年7月 1日 (火)

いただいた命

 クラス会から10日後、夫は朝起きたら舌がもつれて回らなくなっていた。脳血栓だったが、すぐ病院に行ったことも幸いし、後遺症はほとんど残らず1週間で退院した。クラス会の楽しい酒と疲労に暑い日が続いたことで脱水症状になったのが原因らしい。
 ところが、血栓を溶かす薬の影響でクレアチニン値が8を越してしまった。退院した足で、今度は透析専門のクリニックに入院した。もはや保存療法は限界ということで透析となった。シャントができていなかったので、鼠径部から緊急透析をし、4回の透析で薬の影響はほとんどなくなった。シャントの手術は入院10日目に行われたが、使えるようになるまで最低2週間はかかる。それまで透析は鼠径部からになる。鼠径部には透析のためのカテーテルが入っているので、退院できない。病室にノートパソコンを持ち込んで何とか締め切りに間に合わせた。

 「○○ちゃん、おはよう。ご飯食べようね」「あーん、いいお口だね。おいしい」。同室で看護助手の世話を受けているのは九十四歳のKさんである。言われていることぐらいはわかるが、ほぼ一日中眠っていて、食事とおやつの時間になると「○○ちゃん」と起こされる。おやつはベッドの上だが、食事は車椅子でディルームに連れて行かれる。枯れ木のようにやせ、穏やかな笑みを浮かべているKさんは「かわいい」と看護士や看護助手のアイドルである。
  糖尿病から腎不全になったTさんは片足を切断している。眼もよく見えなくなって好きな本も読めず、虚ろな眼で一日中テレビを眺めている。リハビリも仕方なくやっているようだ。他にも寝たきり状態の人が多く、十分なケアを受けて生かされている。川風市は都会と違って介護助手は足りているようだ。このような状態が続けば終末期医療費は止め処なく膨らんでいくだろう。
 まだ若い透析者で脳溢血を起こし入院している人もいる。透析者は脳梗塞や脳出血を起こしやすい。復帰には十分なリハビリが必要だが、180日経てば打ち切られてしまう。医療費の増大を抑えるため、3年ぐらい前からそのような制度になった。

 今日は死ぬのにもってこいの日
 生きているものすべてが私と呼吸を合わせている
 すべての声が私の中で合唱している
 すべての美が私の目の中で休もうとしてやってきた
 あらゆる悪い考えは私から立ち去っていった
 私の土地は私を静かに取り巻いている
 私の畑はもう耕されることはない
 私の家は笑い声に満ちている
 子どもたちはうちに帰ってきた
 そう、今日は死ぬのにもってこいの日

 上記はプエブロ・インディアン古老、タオスの言葉である。
 2週間ほど前バーモント州の山中で1人花や野菜を育て、絵を描いて暮らしていたターシャ・チューダーが自宅でなくなった。92歳だった。
 白州次郎は相撲の千秋楽を見た後「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」と言って病院に入院しまもなく亡くなったという。

 夫は「(透析で)いただいた命だからきちんと生きるけれど、無駄な延命はするな」と言う。退院したらすぐリビング・ウイルの手続きをするつもりだ。

2008年5月17日 (土)

同窓会

 夫の中学3年時の同級生たちは我々が住む地域で同窓会をやることになった。夫と東京在住の医師が幹事になった。夫は場所をぬるさと泉質の良さで有名な温泉に決めた。最寄の駅からバスもなくタクシーで20分以上かかる旅館が2件だけの秘湯である。送迎の車もない。38度前後なので2時間も入らないと温まらないが、難病に卓効があるので、湯治客の間では知る人ぞ知る名湯である。背中がぴんと伸びた95歳の女主人のもてなしに家族同然の湯治客も多い。
 
 夫の出身中学は札幌市にある。地元でやっていたときは参加者が十数人だった。古希という年齢もあり、来るのは5-6人かな、と考えていたら何と21人も集まり、小さな旅館は貸切となった。
 夫は中学3年時の同窓会にしか出ない。このクラスは不思議なクラスである。国立大学の一期校をはじめ、大学を出た人も多い。一流企業に勤め相当の地位まで出世した人も、苦学して弁護士になり、日弁連の副会長まで努めた人もいる。札幌とはいえ、何の変哲もない公立中学なのに、メンバーが非常に多彩で卒業後55年の今まで親しく付き合い、助け合ってきた。

 もう1人の幹事氏は同窓会出席が趣味とも言える人で小学校から大学まで案内が来る同窓会にはほとんど出ていて、幹事にも慣れている。早速案内状の雛型を送ってきた。国立大学一期校の医学部同窓会の案内状で、冒頭に「同窓の諸先生へ」とあった。それを見て唖然とした。同級生なのに自分たちを「先生」と呼ぶなんて。
 夫はレストランでも決してお任せコースは取らない。もちろん案内状も自分で書いた。この案内状に誘われて、と何人もの人に言われた。40通も出した往復はがきの返事はただ欠席に丸がついていたのも数通あったけど、他の大多数には余白いっぱいに近況が書かれていた。作家冥利である。

 戦後を築いてきた年齢の彼らは戦歴とも言える生活習慣病に倒れ、何とか回復した人も何人かいるけれど、最寄の駅までリュックを背負って20キロ近くの距離をマラソンで帰っていく信じられないよう人もいる。彼は大学の病理学の名誉教授で未だに学会で論文を発表している。

 山奥の秘湯のカラオケも何もない小さな旅館で心行くまで語りあった上、女主人のもてなしを受け、1万円で千円おつりがきたことに感激して帰っていったうちの何人が次の同窓会で出会えるだろう。夫も含めて。

2008年4月11日 (金)

出過ぎた杭は打たれない

 20年前、私は知的障害のある長女を校区の普通学級で育てたいと主張し、教育委員会や学校や地域の人たちと激しく対立した。障害児は健常児の邪魔になると言うのが彼らの言い分で、あらゆる妨害をした。飲食店をやっていたので、「学校や教育委員会に逆らったら、ここで商売などできなくなる」とまで言われた。私はすかさず「そういうことを言う教育委員会はまるでやくざではないか」と言い返すなど、何を言われてもどんな仕打ちをされても決して主張を曲げなかった。1年後には校区の普通学級に転籍することができ、その後その経緯を書いた2冊の本も出版した。関係者たちの長女と私への対応は一変した。学校は私の主張をほとんどすべて受け入れ、長女は中学卒業まで普通学級で普通に過ごした。
 さらに家業の飲食店は地域の学校関係者が利用してくれ繁盛した。

 面と向かって「あなたのような人は許せない」などと言われたこともある。彼女は後になって「本当はあなたがうらやましかった。どんな状況でも頭を上げて自分の考えを言い、明るく生き生きとしているあなたがうらやましかった」と言い、母子ともに長女に深くかかわってくれた。

 この町の陰湿さは目を覆うばかりだ。誰もが顔と名前を出して本心を言うことに怯えている。優秀な成績で公務員試験に通りながら、コネがないために面接で落とされた人の母親は見ず知らずの私にそのことを訴えるのさえ、ひどく怯えていた。怯えているのが相手に伝われば余計に相手は図に乗ってくる。「出る杭は打たれる」のである。ところがハンマーが届かないほど出すぎた杭は打つことができない。打たれたくなければ杭をどこまでも高くするしかない。それには自分で考え、勉強し、行動していかなければならない。

2008年3月14日 (金)

ブログ

 ちょうど1年前夫は「街づくりを考える会」で川風市は夕張化の危機にあると発言した。仲間の市民運動家も同感で会議のたびに「談合」と「夕張化」を問題にしたが、会の中心人物やその取り巻きたちに「そういうことは言わないように」と釘を刺されていた。市の総務部長に問い質してもそのような事実はないという。
 しかし、今や川風市の財政は夕張化寸前になった。公共事業費は前年の半分になり、業者たちが市役所に抗議に押しかけてきた。「談合」でしか受注できない川風市の業者にはこのような事態に対応できる体力がない。市長自ら「談合は市長の醍醐味」と言ってのけ、市長になって30億ぐらい稼ぎ、妻名義で土地を買っているという噂が流れている 。総務部長が夕張化を否定したのも1年後に退職するため、退職金がカットされないようにという理由だった。職員の給与は一律5%カットされることになったが、市長や市の幹部の退職金等には手がついていない。市長は70余万円の月給の中から1万円ぐらいカットされるだけだという。

 今こそ川風市の澱んだ空気を一新するときだ。オンブズマンの友人と夫は「市民の目」というブログを始めた。友人は情報公開で得た資料を基に市長や市の幹部や市会議員たちの不正を暴いていく。夫はその資料を基に彼らの阿漕さ、えげつなさを的確な言葉で罵倒していく。かつて「天才コピーライター」と呼ばれていた夫の面目躍如である。同時に川風市の再生のために「地域通貨」などの様々なアイディアも出していく。
 最初はほとんど反応がなかったが、ある時期(職員の給料が一律カットなどといわれ始めたころからか?)アクセスが急激に増え、日に200件以上もあるようになった。市役所のサーバーからのアクセスが最多だが、県庁のサーバー、自民党のサーバーからのアクセスもある。2チャンネル(匿名掲示板)の川風地域情報でも話題になっていてここからのアクセスも増えている。市議会でも「市民の目」というブログに市長や市の行政の問題点について書いてあるが、市長は知っているか」という質問まで出るようになった。答えは「知らない」だった。
  匿名だが、コメントも出るようになった。「司会議員になってこの市を建て直してください」「市長もそんなにがんばっていないで早く債権団体にしちゃえよ。そしたら市役所のやつらも威張っていられなくなるし、給料も半減。市民に後ろ指指される本来の姿に戻るだけ。今までやってきたことが明るみに出るってもんだよ」に始まり、次第に具体的な提言なども出てくるようになった。友人も夫も顔と名前を曝している。自分自身を曝すことで「言いたいことを自由に言っても何ともないんだよ」と訴えているのだ。
 インターネットの発達により、伝える者さえいれば、世界で起こっていることがリアルタイムで世界中に伝わるようになった。川風市でも恐るべき閉鎖性に風穴が開こうとしている。

市長の息子をめぐる事件

 川風市長の選挙事務所のトイレに、小学校6年生の女子が同級生の男子に閉じ込められ、体を触るなどの悪戯をされた。見張りは市長の息子だった。
 市長の息子には軽い障害があり、そのことで苛められている。苛めているのは川風市の有力者の身内の子どもである。彼らと同級生の母親である市民運動家は市長に「あなたの息子への苛めは放っておくべきではない」と言いに行った。市長は「市長の息子なんだから苛められても我慢しなさい、と言っている。その代わりゲームを好きなだけ買ってあげている」と答えた。実際市長の息子はゲームは何でも持っているという。
 卑怯者!としか言いようがない。息子に「苛めに立ち向かえ!」と言えないのは苛めている子どもが自分の有力な後援者だからである。市長は自分の息子すら守ることができず、代わりに金や物を与えることで機嫌を取っている。悪戯をした子は市長の選挙事務所で市長の息子を見張りにしてことに及んだのだ。子どもは市長を見抜いていたのである。市長のだらしなさも論外だが、さらに情けないのはこの事件をひた隠しに隠そうとしている学校当局や教育委員会である。道徳的勇気が欠如している彼らのような卑怯者にまともな教育ができるはずがない。そこに川風市の大きな問題がある。川風市が荒廃し、挙句に債権団体になるのも当然である。

 被害者の家庭は母子家庭である。母親は普段ははっきりものを言う活発な人なのに、市長や学校当局や教育委員会から圧力をかけられ声を挙げられない。自分の娘に我慢しなさい、と言うしかないと思っている。市民運動家の仲間たちが娘のため立ち向かうよういくら説得しても怯えて貝のように黙り込むだけである。優秀な成績だったのにコネがなかったばかりに川風市の公務員試験に落ちた女性の母親も同じだった。見ず知らずの人間に愚痴を零すのが精一杯なのだ。

 しかし、状況が変わってきた。校長が隠蔽を図っている関係者たちに、市民運動家たちが情報公開をしつこく迫っているのでこの事件は表沙汰になるかもしれない、と漏らした。川風市民のためにも声を挙げて欲しい!どこまでも一緒に闘うから。

2008年3月13日 (木)

選択

 定期健診で夫のクレアチニン値が急上昇していた。薬の飲み忘れもなく、塩分や蛋白質の制限もきちんと守り、風邪も引いていない。T医師は首をひねった。「降圧剤の一種が一時的にクレアチニン値を上げることがある、もしかしたらそのケースかもしれない」と原因と思われる降圧剤を外した。2週間後、さらに数値は悪化した。T医師は漢方薬を飲んでいるので薬が干渉しあっているのかもしれない、と言う。さらにクレアチニンクリアランスの数値が15ミリリットルを切ったらクレメジンを服用するようにとも言う。江部医師からはクレメジンだけは服用しないようにと言われていた。クレアチニン値の改善を妨げるという。
 2週間後クレアチニン値はさらに上昇していた。T医師はクレメジンの服用を重視している。T医師の腎不全保存療法の悪化要因の1つに「クレメジンを飲んでない」という項目がある。いよいよどちらかの治療法を選択しなければならなくなった。しかし、漢方を止めるつもりはない。
 江部医師に電話で問い合わせた。「薬の副作用ではなく、初診時で腎機能が5分の1くらいしかなかったのだから、急激な悪化もありうる」ということだった。いつ透析になってもいいように透析をやっている近くの病院に行き、そこで血圧の管理などをしてもらうようにという。
 5日後、江部医師の診察を受けた。江部医師は西洋医学では腎不全の治療法はなく、血圧を下げ、食事療法で悪化を防ぐしかない、という。クレメジンは「キムコ」と同じ原料で、非常に飲みにくい上、医師の間でも腎不全の改善に効くという見解とまったく効き目がないという見解の2つに分かれていて、たとえ効いたとしても透析までの期間をわずかに延ばすだけだという。

 我々は江部医師を選んだ。幸い近所に腎臓病治療で名が通っている病院が経営している透析ができるクリニックがある。そこで診察を受けた。医師はクレアチニン値が5~6ぐらいでも降圧剤と食事療法で5年ぐらい悪化していない患者もいるので、食事療法を徹底するよう指導してくれた。クレメジンのクの字も出ず、漢方との併用についても何の問題もなかった。灯台もと暗し。T医師の患者の中にもクレアチニン値が5~6で11年も安定していた女性がいたという。しかし、血圧を調整し食事療法を徹底していても急激に悪化する場合もある。夫は数ヶ月後にも透析になるかもしれない。しかし、生涯透析を回避できるという可能性も僅かながら残されている。漢方と食事療法と軽い運動で養生していくしかない。

2008年3月10日 (月)

命と向きあう・食

 幕内秀夫さんの『美味しい食事の罠』を読んだ。幕内さんは『粗食のすすめ』で有名な管理栄養士である。東京農業大学卒業後、専門学校の講師を努めるが、栄養教育に疑問を持ち退職。以後日本の伝統食や民間食養法の研究を行う。

 戦後、日本の食育は「蛋白質が足りないよ」や「1日1回フライパン運動」に代表されるように動物性蛋白質と油脂を積極的に取る洋食礼賛の方向に向かった。その結果、「ご飯・おひたし・煮物・漬物」の伝統食は破壊され、世界各国の食事が食べられるようになった。食は商業に委ねられ、ご飯までがパック詰めされて売られている。家庭で炊くご飯と違い艶を出す、というような目的で様々な添加物が入っていたりする。若者はファーストフードやコンビニ弁当を食べ、主婦たちの間では「デパ地下」と呼ばれるデパートの地下で買える惣菜が人気である。
 その結果、油脂と砂糖を大量に取るようになった日本人、特に若い女性に乳癌などの婦人科系の病気が激増しているという。病院の食事指導でそのような女性たちと出会ってきた幕内さんは彼女たちの食生活に危機感を募らせている。それは、部分的な欧米化によってバランスを欠いた都会型の食生活、つまり、まともな主食を食べていない、この一点に尽きるという。
 彼女たちは共通して、ご飯を食べず大量の油脂を食べている。痩せたいがために、カロリーを抑え、食べる量を抑え、その結果、油脂や砂糖で穴埋めをしている食生活。脂質は女性ホルモンを刺激するので、それによって婦人科系の癌のリスクを高めている可能性が非常に高い、という。
 ファッションモデルのように細くなりたいと願う女性たちはご飯を食べることを極端に控えようとする。ご飯やうどんなどを一切取らないというダイエット法も流行している。一方でパスタやサンドイッチ、ピザやハンバーガーなどのカタカナ主食は大好きだが、これらも太るからとわずかな量で我慢する。実はこの主食が、すでに砂糖や油脂まみれで、ほとんど主食としての体をなしていないことには無自覚なままである。彼女らが食事として常食しているふわふわのパンには砂糖や油脂がたっぷり混ぜ込まれていて、てんぷらの衣やドーナツを食べているに等しい。
 幕内さんが食事指導で出会った乳癌の女性たちの多くが、朝食にパンを食べていた。砂糖と油脂入りのパンに、マーガリンとジャムを塗りたくり、さらに砂糖と油脂まみれの主食にしているのである。これでは飯なしのてんぷらを食べているようなものだという。その上、野菜を食べなくては、とレタス2~3枚やきゅうり3切れなどのわずかな生野菜をマヨネーズやドレッシングで油脂まみれにしている。これもてんぷらを食べているようなものだという。他の付け合せもスクランブルエッグやほうれん草のソテーなどいずれも油脂まみれのものばかり。パンと一緒に食べるものはついつい油脂まみれのメニューになってしまう。さらに美容と健康のためということでデザートとして糖分たぷりのフルーツや甘いヨーグルトなどを食べている。ほとんど、砂糖と油脂だらけのお菓子みたいな朝食である。 
 パンはご飯と違って腹持ちしないので昼食時にはかなり空腹を感じているが、太りたくない彼女たちはコンビニのサンドイッチとサラダとヨーグルトなど、カタカナだらけの食事で済ませようとする。これもまた、砂糖と油脂まみれの小麦粉、油脂まみれのわずかな野菜でおよそ食事と呼べる代物ではない。
 もともと食事の基礎となる土台は、ご飯の主食。その上に野菜があり、さらにその上に肉や魚などの蛋白質があり、一番上にはわずかな脂肪や砂糖といったピラミッドが理想のバランスといわれている。ところがこれまで述べてきた女性たちの朝食や昼食はこのピラミッドがほとんど逆転している。これでは、夕食まで体が持つはずがなく、たいてい間食としてクッキーやチョコレートなどのなどのお菓子やジュースなどの甘い飲み物を口にしている。夕食はフレンチやイタリアンのレストラン、中華料理店に行き、健康のためとなるべく野菜料理を注文するが、こういったレストランには油脂まみれでない料理はほとんどない。自宅で取る食事も手軽にできる野菜炒めや市販のルーを使ったカレーなどになりやすい。おまけに、痩せたい女性たちはここでもご飯を食べまいと我慢する。つまり、主食であるでんぷんをまともに取らず油脂と砂糖で満腹になろうという最悪のパターンにはまっている。痩せよう、野菜を多めにしよう、と美容と健康に気をつけ、野菜も食べるように心がけた結果、こんな悲惨な食事内容になっているのである。
 身近にもまさにそのような女性がいる。卵巣癌を手術で取った後、脳梗塞になった彼女は今も体調が優れず、やせ細っている。彼女の好物はパンでご飯はほとんど食べないという。料理が趣味でイタリアンやフレンチや中華などを食べ歩くのが趣味である。自分で作る食事も肉が中心で、パイなどのケーキ類も手作りし、日常的に食べている。パンの食べすぎだと思われるが、小麦粉アレルギーになっていて、パンを食べると唇がびりびりするといいながら、パンが止められないという。
 ずいぶん前になるが、「世にも美しい食卓」などという本を書いた人がいた。ご飯を嫌い、パスタしか食べなかった彼女は若くして癌で死んだ。彼女の食事スタイルには若い女性の信奉者がたくさんいたという。

 農家に生まれた私は3食ともご飯を腹いっぱい食べて育った。父はご飯をしっかり食べさせた上で、「口おかず、ものを食べるんじゃない(食事以外に、必要以上に食べるな)」と躾けた。実家を離れても主食はご飯だった。パンやうどんましてパスタなどを食べることはほとんどなく、幕内さんが当然としている食事内容だった。ご飯以外の主食はおやつのようで食事をしたという満足感が得られなかったからである。健康食品もサプリメントの類も取ったことがない。
 父は85歳を過ぎた今も健在で畑に出ている。父によれば肉(洋食)を常食していた友人たちは若くして癌で死に、ご飯と漬物(和食)ぐらいしか食べない友人たちはみな元気で長生きしているという。
 私は健康で母乳もあふれるほど出た。子どもにも当然ご飯をしっかり食べさせた。おなかがすいてパンなどを食べないで済むよう弁当にはご飯をぎゅうぎゅう詰めて煮物中心のおかずを添え、食後の飲み物にはお茶を持たせた。独立した子どもは自分でご飯を炊き、野菜などを煮て食べている。健康でどんなに無理しても風邪一つ引かないという。

 夫はパスタが大好きでレストランを通してイタリア産の素材を取り寄せて作らせるほどだった。そばなどの麺類も好物の上、うなぎや寿司やカツ丼などご馳走が大好きだった。ところが、腎不全になり、漢方薬を飲むようになると嗜好が変わった。ご飯が大好きになり、パスタになど見向きもしなくなった。近隣の農家から伏流水で育てた美味しい米を玄米で買い、炊く直前に精米し、鉄鍋でストーブの日でことことと炊く粥はそれだけで十分に美味しい。滋味とはこのような味をいうのだろう。塩分なしでも食べられるというので助かっている。塩分、蛋白質、カリウム、リンと様々な制限があるため、おかずは僅かな醤油をかけたおひたしや薄味の野菜の煮物、わずかな焼き魚、わずかな肉入りの野菜炒め、豆腐、納豆などである。ご飯をたくさん食べているのでカロリーは十分に取れている。まさに、幕内さんが理想としている食事である。腎不全の食事療法では油脂をたくさん取るよう指導されるが、夫は食べたくないという。ついこの間まで、イタリア料理であれだけオリーブオイルを取っていたのが嘘のようだ。カロリーは十分取れているのでこのまま様子を見ようと思う。

 現在日本人の食は命を養うものから命を損なうものになりつつある、とつくづく思う。テレビには大食い選手権やグルメ探訪などの番組が溢れている。食事以外にしょっちゅう何か食べている人も多い。
 そこから消費期限切れで捨てられる食品が膨大に生じる現実が作り出される。「他の生物の命をいただく」というような意識などなく、飢餓線上で必死に生きている人たちへの思いなど感じない。
 ジムに来る様々な生活習慣病予備軍の中高年の女性たちの中には「食べて痩せる」ことを夢見て、体を壊すほど運動をやりすぎている人も何人かいる。食事を減らせば済むことなのに、「30品目の食品を取らなければならない」「ヨーグルトを取るといい」などの「栄養学」に振り回されている。現代は偽者が横行する時代であり、栄養学にも問題のあるものが多い。
 共立女子大学名誉教授の泉谷希光博士は「美食事代の落とし穴」(学士会報No.858)で「美食をしていると、母乳分泌が低下し、不妊症が増える」と述べている。こんなことは、一部の日本人が昔から主張していることである。 西洋かぶれの栄養学者たちは今なお、声高にこれを軽蔑し否定している。商業主義の食支配のお先棒を担ぐのではなく、それに警告を発するのが栄養学者の仕事ではないか。

 

2008年1月 9日 (水)

命と向きあう

 腎不全の夫は透析を回避する方法を模索していた。透析はあまりにも心身の負担が大きいからである。近所の病院の若い主治医は血圧の管理や貧血の防止等、いくつかの治療をしようとしたが、我々を納得させる説得力がなかった。彼の処方する薬にも納得がいかず拒否するようになった。それには理由があった。
 数年前、夫は痒みに耐え切れず近所の病院の皮膚科を受診した。内服薬も塗り薬もまったく効かず、症状はむしろ悪化したが、医師は薬の量を増やすだけだった。次第に体力がなくなり、終いには尿が出なくなった。薬をやめ玄米菜食療法に切り替えたところ、痒みは少し収まり、体力も回復した。今になって思えば、その痒みは腎不全からくるものだったのに、医師は内臓の検査もせず闇雲に強い薬を処方し続けたのである。このことがあって、この病院の医師が出す薬には用心するようになった。田舎では病院の選択肢がほとんどなく、腎不全の治療も同じ病院で受けるしかない。主治医が出した降圧剤は副作用がひどく、服用すると無気力になって1日中寝ているような状態になり頭も働かなくなった。
 また、腎不全期の治療で一番問題になるのは食事療法である。主治医には栄養学の知識がなかった。栄養士の指導も受けたが、到底納得のいくものではなかった。食事の管理はやっていたが、今一つ自信がなく、腎不全はゆっくりとだが、確実に進行していった。

 去年の8月、漢方で腎不全の治療をする京都市の高雄病院院長江部洋一郎医師を知った。漢方の考え方を基に、現代中国医学の薬である中医薬も活用する独特の処方を行っている。透析の導入を遅らせることができるし、透析を離脱できる可能性もある、という。
 すぐに診察を受けた。処方された漢方でクレアチニン値がぐんと下がり、全身状態もよくなった。しかし、血圧は高いままである。高雄病院は川風市からかなり遠く、頻繁には通えない。血圧の調整は近所の病院でやるよう指示された。地元の病院の主治医が出す薬をこわごわ飲み始めたが、血圧は下がらなかった。

 そんなときに出会ったのが、保存期腎不全療法に関する本である。さっそく、著者である 
 T医師を訪ね、診断を受けた。T医師は断言する。「透析は人間の尊厳を傷つける。自分が透析をやったこともないのに、透析をすれば楽になりますよ、などと簡単に言う医師に怒りを感じる。慢性腎不全の治療が限界になり、透析を受けることになった人たちの中に『透析になってよかった』という人はいない」。
 T医師は慢性腎不全を進行させる因子を徹底的に突き止め、取り除くことで腎不全の進行を止める医療を編み出した。この治療は患者の自覚がなければ成り立たない、医師と患者の合意の下に行われる治療である。T医師に徹底的に学んだ栄養士の指導は完全に納得のいくものだった。この病院にはこのような栄養士が6人もいるという。1日蓄尿という方法で塩分や蛋白質の摂取量を医療的に突き止められたこともあり、食事管理に自信を持てるようになった。

 12月、高雄病院で診察を受けた帰りのバス停で腎硬化症で江部医師の治療を受けている男性に出会った。バス停は情報交換の場である。夫と同年齢のその男性は東北大学の心臓外科の清水先生の漢方治療を受けていた。2年前に先生がなくなり、漢方の服用をやめたところ、クレアチニン値が上がった。日本で唯一クレアチニン値を下げられる医師として江部医師を紹介され、治療を受け始めたところ、クレアチニン値が下がったという。血圧や尿酸値は近所の病院で調整し、札幌から1ヵ月半に1度通ってきている。透析になったら、腎移植を受けるつもりだが、日本では70歳以上は無理なので、大阪の斡旋組織を通して800万円で中国の死刑囚から腎臓を買うという。「生きのいい腎臓が手に入るんですよ」と刺身でも食べるように目を輝かせた。
 江部医師は現代医学はもちろん、他のさまざまな代替療法や心理学まで勉強されたという。漢方治療は証で見るので、腎不全以外の様々な病気も診ておられる。

 江部医師もT医師も患者の痛みに深く寄り添われる。T医師は年金でできる治療にしたいと言われる。江部医師の処方される漢方はすべて自己負担でも2万円あまりである。 

 我々は漢方薬を服用しながら、保存療法を受けることにした。
 自己顕示欲がなく、金にも執着がない夫は必要以上に働かない。好奇心が強く、何にでも首を突っ込み、自分の世界を広げてはいくが、それを形にする時間を作ろうとはしなかった。将棋にのめりこんでいて、かなりの時間を割いていた。しかし、田舎の将棋の練習場や大会会場はいまだに禁煙ではない。冬は暖房もあまり効いていなし、風邪をひいている人もいる。夏の冷房も体に堪える。風邪と煙草と寒さは腎不全の大きな進行因子なので、家にいるのが一番安全である。行動が制限されるようになったことで、仕事をする時間が増えた。自分の命と向き合うという、新たな世界も開けた。これまで蓄えてきたものが1つ1つ形になっていくのを見るのは楽しみである。

 

 

絶望

 近所に住む知人と日帰り温泉に行った。知人夫妻は東京出身で夫の定年後、田舎暮らしに憧れて川風市に移り住んだ。田舎の人たちは純朴だと思い込んでいた夫妻は川風市の不動産屋のカモにされた。地元の人なら決して買わない土砂が流れ込むような土地を売りつけられ、その土地に家を新築した。数年でそこに住むのを諦め、木の香が残っている家を売り、定期借地権つきの土地に新たに家を建てた。同じ不動産屋の仲介である。その不動産が「3軒目はどうですか」などといってきたという。昔は純朴な田舎の人が狡賢い都会人にやられる、というケースが多かったが、今や気のいい都会人が狡賢い田吾作にやられるということも起きるようになった。

 彼女の夫は亭主関白を絵に描いたような人で、川風市への移住も妻に一言の相談もなく決めたくらいである。彼女が溜まりに溜まった鬱憤を近所の知人に零したところ、「誰にも言わないから」と言われたにもかかわらず、あちこちに言いふらされた。人の不幸は蜜の味。洗練された都会人に対する嫉妬もあったのだろう。

 そんな話を大きな声で露天風呂で話していると、中年の女がおずおずと話しかけて来た。「すみません、聞くつもりはなかったのですが、聞こえてしまったので。昔から川風市に住んでいる方ではないんですね」。頷くと、「この町もそんな人たちばかりでもないんですけど」と控えめに言う。知人が他の人と話し始めると、その女性は私の腕を引き寄せ、小さな声で話し始めた。「川風市の公務員試験でうちの娘は19人中1番の成績だった、と言われたんです。面接試験に残ったのは6人なんですが、合格確実と言われていました。ところがその面接会場に1人の女が現れ、私に決まった、と言ったそうです。面接の内容も『食べ物は何が好きか』などというどうでもいいことばかりで、『地方行政にこのように取り組みたい』という娘の話には興味すら示さなかったんです。娘が『公平に見てください』と言うと『公平に見てますよ、ねえ』と互いに顔を見合わせたそうです。合格したのは面接会場に突然現れた女でした。こんなことになるんだったら面接なんかしなければいいのに。1週間ほど悔しさで腸が煮えくり返るようでしたが、誰にもいえません。川風市に古くから住んでいればどんな人とも何かしら繋がりがありますから。こんなことを今だにやっているのは川風市と隣の村くらいで、M市(県庁所在地)などではこんなことはないと聞きました」。
 川風市の職員はすべてコネでしかとらない、いうことは市民のほとんどが認めている。不況のあおりで優秀な人たちが公務員を目指すようになった。彼女の娘もその1人と思われる。しかし、コネで入った川風市の幹部にとって自分たちより優れた職員など要らないのである。

 彼女は見ず知らずの私に話すことで少しでも鬱憤を晴らしたのだろう。「川風市も変わらなければいけませんよね」と言った。泣き寝入りしないで、抗議しなさいよ、と言ってみたが、彼女は弱々しく首を振るだけだった。

2007年12月 2日 (日)

リーダー

 夫は自然エネルギー自給の町として「ボストン・グローブ」紙に紹介された岩手県葛巻町に興味を持ち、「街づくりを考える会」で視察を提案した。定年後東京から川風市に移住した市民運動家(72歳)、川風市で唯一市民のために活動している市会議員(66歳)、その彼と共に市民のために活動していたが、病気で体調を崩し、引退した元市会議員(56歳)が自費で一緒にいくことになった。
 市会議員氏は、夫が葛巻町役場の担当者と作成した2泊3日の日程の濃密さに驚いた。これまで川風市の市会議員が行った視察は相手の迷惑になってはいけないという理屈で2時間を限度とし、後の時間は観光と宴会に費やされるのが常だったという。しかし、葛巻町の担当者は、おざなりな視察は迷惑、町をしっかり見ていって欲しい、と注文をつけた。
 日程の最後に町長との1時間半の会談があった。葛巻町を世界的に有名にした名物町長は8月いっぱいで引退する。
 市会議員氏には、まだ50代後半で、町民の絶大な支持がある町長がなぜ引退するのか、が一番の疑問である。川風市の市長にとって市長という地位は第一に市長個人の蓄財を意味する。前市長などは市の購入する一切の品物を自分の息のかかった業者を通させたと言われている。ところが、葛巻町の町長にとって町長職は分刻みのスケジュールに縛られる激務に過ぎない。町長の本業は酪農であり、東京に出張するときは4時半に起きて牛の乳搾りをしてから行くという。町長を続けることは妻に負担をかけ続けることになる。そもそも二人共に酪農をやっていくという約束で結婚した。妻が農機の事故で骨折したのを機に、町長を退き酪農に専念することにした、という。
 川風市の職員や議員たちは身を削ってまでも誇りを持って町の課題に取り組んでいる。市民運動家は川風市の職員や議員たちとのあまりの違いにため息をつくばかりである。
 わたしは環境問題について疑問をぶつけた。「草食動物の牛を穀物で育てれば、それだけ余分なエネルギーが必要になり、環境に負荷をかけることになる。葛巻町にふんだんにある草だけで育てることはできないのか。また牛よりも山羊のほうが体重比で乳を多く出す。ヤギの乳で作ったチーズは高級ワインにあう。環境問題を考えれば、牛ではなく、山羊を飼うべきではないのか」。
 川風市の近くの村には山羊を飼って乳を絞り、チーズを作っている彫刻家がいる。山羊のチーズは常温熟成ができ、熟成の度合いによって味が違う。フレッシュなものは癖がなく、抵抗なく食べられる。
 町長は即座に答えた。「確かに、今のやり方は環境を破壊しているかもしれない。しかし、草ばかりで育った牛の乳は飲みにくくて売れるものではない。山羊の乳も同じだ。そうなれば8千人の町民を食べさせていくことはできない」。
 葛巻町は首都圏から遠く、アクセスも悪い。強風が吹き寒さは厳しいが、雪があまり降らないのでスキー場もない。山なのに温泉もない。米も野菜も十分には育たず、酪農ぐらいしかできない。町は悪条件を逆手に取り、風力発電をはじめとする自然エネルギー自給とミルクとワイン(山にふんだんにある山葡萄を使ったワインも開発)の町として立ち上がった。町長はじめ職員や議員たちは一丸となって世界に町の素晴らしさをアピールしている。葛巻町の現在は私心なきリーダーのもとによそ者(新しい風を吹き込む者)、ばか者(私心なく行動する者)、若者たちによって作られた。
 市会議員氏は常々嘆いている。「川風では誰が議案を出したかだけが問題だ。いい案なら誰が出しても採用すればいいんだが、あいつが言ったことなら駄目だ、とすぐに言い出す」。

 群馬県に上野村という山間の小さな村がある。全国で初めて宅老所を作るなど福祉を充実させ、わずかながら出生率も上がってきているという。村長を10期務めて引退した黒澤丈夫氏はリーダーの条件に私心のないことを挙げている。

 『奇跡を起こした村の話』(吉岡忍著・ちくまプリマー新書)に登場する新潟県の人口7千人ほどの黒川村は「貧困と豪雪と出稼ぎを宿命のように背負った」村である。日本中の似たような市町村が高齢化や労働力流出によって人口を激減させてきた、戦後から高度成長、バブル経済とその破綻に至る時期、逆に人口を増やしてきた。12期48年村長を務めた伊藤幸二郎氏の政策は葛巻町長のそれと同じである。

 周辺に多くの温泉やスキー場があり、気候も比較的温暖で首都圏に近い川風市には、特に努力しなくとも観光客はやってくる。観光果樹園で大根のようなまずい桃を買わされても、何も知らない客は次々とやってくる。葛巻町や上野村や黒川村に比し、はるかに豊かな川風市は街のボスや市の職員や議員が談合や補助金でどんなに私腹を肥やそうと、何とかやってこれたのである。
 このようなところに真のリーダーは育ちにくい。

 バブルがはじけ、日本は財政破綻の危機に瀕している。かつての補助金頼みの地方行政はもはやできなくなっている。様々な問題が噴出しだした川風市にも私心のない優れたリーダーが必要な状況が生まれている。しかし、真のリーダーになれるような人は今のところ見当たらない。よそ者、ばか者、若者を徹底して排除してきたからである。情念を判断の根底おいた行政から、理性を基準にした行政へ変わらなければ、夕張化の大波に呑み込まれてしまう。

2007年11月16日 (金)

蜂起

 川風市の市会議員に「市民のため」という観念はない。市の公共事業は談合で受注先が決まる。政務調査費が飲み食いに使われるのは当たり前で、コンパニオンの費用まで賄われ、しかもお膳立てするのは市の職員である。視察はコンパニオンつきの慰安旅行である。市民運動出身の市長は「談合は市長の醍醐味」といってのける。妻の名義で数十億の蓄財をしたと噂されている。
 
 川風市の市議や役人たちにはこの地域で50人中40番以下の成績の人たちが入る高校出身者が多い。大学まで出た人は跡継ぎ以外はほとんど町を出るようだ。ジムの風呂で年配の女性たちが話していた。「一人ぐらいは成績の悪い子がいてくれないと。大学を出たら親元に残ってくれないのよね」。
 市議や役人たちは劣等感が強く、既得権が奪われるかもしれないという恐れからよそ者を執拗に排除する。本来公僕である彼らが市民に君臨し権力を振りかざす。陳情に来た市民の前でいすにふんぞり返り、タバコの煙を吹きかけ、「何だ、お前は」と睨み付ける。平気で嘘をつく。チンピラ同然である。発言に責任を持つなどと言うことは考えられない。言った、言わないという場面になると、口裏を合わせる。このようなことがあちこちの部署で罷り通っている。このような人たちが取り仕切っている川風市が今や「夕張化」の危機に瀕している。
 わたしは川風市に移住する前に住んでいた村で1人で市民運動をやっていた。そこには川風市にいるような無知で傲慢な議員や村の職員はいなかった。よそ者だからという理由で排除することはなかった。県庁取材地のベッドタウンでよそ者の比率が多かったからである。
 
 このまま手をこまねいて「夕張化」で痛手を被るのはごめんだ。業を煮やした人たちがついに蜂起する。ほとんどがよそ者で50歳以上70歳を過ぎた人もかなりいる。平均年齢は65歳i以上、ボケ防止もかね、培ってきた能力をとことん使うんだ。
 まず財政状況を洗い直し、無駄な助成金はストップさせる。このことをどんなやり方でやるのか。
 ブログを作ろう。書ける人たちが何人か集まり、ブログで川風市の現状を全国に公開発信しよう。そうすれば、外部の目が川風市にを注がれるようになるだろう。

2007年11月 7日 (水)

何の顔がある!

 ジムの更衣室で帰り際、知人が言った。「昨日、温泉に行って2万5千円で十二単を着て写真を撮ったのよ」。還暦を過ぎた彼女は病気がちで痩せこけている。「重かったでしょう」と言うと「化繊だから」と笑った。彼女に十二単が似合うとは到底思えない。夫にかなりの収入があるとはいえ、なぜこのような無駄としか思えないことができるのだろう。夫にそのことを言うと、「それは『これ見よがしの浪費・英語ではコンスピキュアス・コンサンプション』と言うんだよ。現実の生活で満たされていないからそんな浪費をするんだろう。彼女はそれをするとき、優越感に浸るため、あとで誰かに話すことも考えているんだよ。人間の経済活動は合理性だけでは測れないんだ」と教えてくれた。衣食足りた人間はこんなことで憂さ晴らしをするんだ、と心底驚いた。

 ジムに毎日熱心に通い、日に4時間もそこで過ごしている67歳の女性がいる。3食腹いっぱい食べても太らないよう運動し、帰りは整形外科に寄ってマッサージを受けていく。いろいろなマッサージに通ったが、整形外科は保険がきくから安上がりだと言い、医師は「運動で体を壊したら、いつでもおいで」と言っているという。
 70近くの主婦が体を壊すほど運動する必要があるのか。そんなことに健康保険を使えば医療費は増え、健康保険料もあがるではないか。食事も運動も適当な量にすれば医者にも通わなくて住む。若くもないのに「腹いっぱい食べて運動で痩せるの」と自分の無知を恥じることなく得々と話す神経に唖然としてしまう。

 「戦争で死んでいった者たちにあわせる何の顔がある!」と今の日本の状態を嘆いた第2次大戦の生き残りの老政治家の言葉が耳を離れない。

2007年10月 3日 (水)

選択肢

 活き活きと澄んだ目。優しさと悪戯っぽさが同居しているような眼差し。権威主義など微塵も感じさせない率直な物言い。初診なのに「遠いしね、(生薬は)とりあえず6週間分出しときますか」と事もなげに言われた。この医師なら夫の状態を改善できる、と確信した。

 夫は腎不全で人工透析寸前の状態である。医大薬学部の教員をしていた夫の妹が「漢方で腎不全に卓効をあげている病院がある」と教えてくれた。京都の高雄病院である。 クレアチニン値が6から2.6にまで下がり(正常値の上限は1~1.1)、透析を免れたという例が載っている。
 腎不全は西洋医学では治療法がないと言われている。断食・生菜食療法で癌を始め、様々な難病を治している甲田光雄医師ですら、食事療法で透析は延ばせても透析になったら西洋医学に任せるしかないという。
 
 5週間後、地元の病院で検査をした。3.8だったクレアチニン値が3.3にまで下がリ、他の数値も顕著に改善している。服薬して2週間後くらいから、寒がらなくなり、起きている時間が長くなった。以前はどんなに暑くてもクーラーも使えず、ジムから戻るとほとんど1日中寝ていることが多かった。数値から全身状態が良くなったことがあらためて実感できた。
 6週間後、主治医となった院長の江部洋一郎医師の診察を受けた。夫の腎臓機能は正常な腎臓の9分の1にまで下がっていた。死んだ細胞は元には戻らないが、生と死の中簡にある細胞が生薬を服用したことで活性化したのだという。このまま3~4のクレアチニン値を維持していければ、透析を免れるかもしれない。
 食事制限は当然続けなければいけないが、たまには少しなら好きなものを食べてもいいと言われた。塩分の制限も辛いが、それよりも辛いのはカリウムの制限である。カリウムは野菜や果物に多く含まれる。水溶性なので煮こぼしたり一晩水につけたりするとかなり減少するが、カリウムを抜いた野菜は野菜本来の旨味がなくなってしまう。だしにもかなり含まれる上、塩分も制限されているので、汁物はほとんど取れない。江部医師が処方した生薬はカリウムの排泄を助けてくれる上、もしカリウム値が上がったら、煎じ薬に「甘草」を1パック加えればいい、という。大好きな果物もほんの少しなら食べられる。カリウム抜きに以前ほど神経質にならなくてもよくなったのでカレーもけんちん汁もおいしく作れるようになった。少しならおいしい汁も飲めるようになったのである。
 
 帰りのバスで江部医師の元で重度のアトピーが完治した女性と一緒になった。江部医師は西洋医学は心理学まで、東洋医学も鍼灸等他のさまざまな分野まで勉強された上で総合的に診断されるという。中国人の弟子もいるほどの腕で、天賦の才能が感じられる見事な匙加減である。

 甲田医師の断食・生菜食療法で高血圧を治した夫だが、腎不全の食事療法はやれないという。クレアチニン3の食事は朝食に蜂蜜を40グラムも取らなければならない。3食とも玄米で麺類は取れない。甘いものが嫌いな夫には、まず毎朝蜂蜜40グラムについていけない。白米と麺類が大好きで、毎食玄米の主食にも耐えられない。美味しいものが大好きで好き嫌いが激しい夫には甲田医師の食事療法はできない。まもなく透析になるだろうと覚悟していた矢先だった。

 運動不足による体調の悪さからとうとうジムに通い始めた夫は、早足で1時間歩き、汗を多量にかくと体がすっきりすることに気づいた。汗と一緒に老廃物も排出されるからだ。毎朝1時間歩かないと体が持たない、歩くのは自分にとっては透析のようなものだ、と言う。ほとんど動かなかった夫の体には柔軟性がなくでくの棒のようで、歪みも酷い。このままの姿勢で歩き続けたら足腰を痛めてしまい、歩けなくなってしまう。姿勢の矯正にピラティスを、足腰の強化に太極拳をやらせることにした。もちろん私も一緒である。太極拳にはすぐ慣れたが、ピラティスは退屈で嫌だという。なだめすかしながらやらせているうちに1年半が過ぎた。歪んでいた姿勢もかなり矯正され、背中も伸びて来た。太極拳のインストラクターは「始めの頃は頭にしか実体がなく下半身は幽霊のようだったけど今は足がしっかり地についていますね」と感に耐えないといった感じで何度も言う。ジムの仲間たちにも「始めの頃は前につんのめっていて転んだりしたら大変だなとはらはらしていたけど、今は背中も伸びて足元もしっかりしてきましたね」と会う度に言われる。

 我々はもし癌になったら、断食生菜食にし、それでも治らなかったら寿命だと受け入れようと話合っていた。しかし、他にも選択肢はあったのだ。

 江部医師が処方した生薬には甘草が含まれている。夫にはその甘さがかなり堪えるようだ。毎回「飲むには相当の覚悟が要るよ」と嘆きつつ、それでも長い時間をかけて流し込んでいる。

2007年9月15日 (土)

パラドックス

 英語の勉強を始めたことがきっかけで米原真理さんの著書を集中的に読んでいる。米原さんはゴルバチョフやエリツィンが指名するほどの優れたロシア語同時通訳者で作家でもある。以前から新聞に連載された彼女のエッセイや書評を面白く読んでいたが、読み返してみて改めて彼女の豊穣さに感嘆した。
 
 卵巣癌を摘出し抗癌剤投与を受けた米原さんは凄まじい副作用で体力を消耗しほとんど寝たきりの状態になってしまった。医師は抗癌剤投与で腫瘍マーカーが下がったので、すぐにでも2回目の投与を開始しようという。しかし、この体力では癌が壊滅する前に生命が壊滅するかも知れない。それよりも何よりもあの苦痛を再び被るのは嫌だ。恐怖だ。米原さんは肉体へのダメージが大きい癌の3大療法、手術と放射線と抗癌剤投与を避けようと、癌治療に関する書籍を読みまくり、代替療法と呼ばれる様々な治療法に挑戦してきた。身を以て代替療法を検証してきたのである。そして結果的に抗癌剤治療を受けざるを得なくなった1週間後の2006年5月、56歳で亡くなった。その顛末が週刊誌に連載された『私の読書日記』の中に述べられている。
 

 日本人の死因第1位は癌である。患者の弱みに付け込んだとしか思えない「療法」は膨大にある。その中から米原さんが選んだ「活性化自己リンパ球療法」は採血と培養されたリンパ球の静脈注入で、1時間以内に終わる。その1回分の費用が26万円、1クール6回、2週間に1回実施するので3ヶ月で156万かかっている。予防的に用いたほうが効果的であるとうたっているのに、1年4ヵ月後には再発している。再発が判明した時点でそのクリニックの医師は執拗に手術を進めた。同院のウリである「活性化自己リンパ球療法」よりも癌の3大療法をはるかに信頼しているようである。
 その後、米原さんは近藤誠著『がん治療総決算』で、癌細胞は遺伝子の変異により正常細胞が変化したもので、決して「非自己」でも「異物」でもない、「癌細胞をリンパ球が非自己と認識して排除してくれると考えることには出発点から無理がある、活性化自己リンパ球療法は詐欺のようなものだ、と批判しているのを読む。その後も温熱療法、食事療法、刺絡療法、爪もみ療法などにも挑戦したが、すべて効果はなかった。
 私が何より驚いたのはそれらの代替療法を行った医師の阿漕さ、横暴さである。患者の痛みなどのっけから露ほども考えていないとしか思えない。彼女が治療法の問題点に気づいて問い質すと「治療に文句を言うなら、金は返すから2度とくるな」と言っている。米原さんは有名な作家だから、普通の市民よりも社会に対し発言力がある。面倒なことにでもなったら大変、と「金は返す」と言ったのだろうか。普通の市民だったら金も返してもらえないのではないだろうか。また、最初に手術をした大学病院の医師もセカンド・オピニオンを求めたい、と言った彼女にカルテの提供を頑強に拒んでいる。このような医師は医師の権威に守られて結果的に人殺しに加担していると思える。 
 米原さんはさらに「お呪い」のつもりでハーブティーやサメ軟骨、乳酸菌飲料等を服用していたが、いずれも藁をも摑みたい癌患者の弱みに付け込んだ犯罪的に高価なものだった。これらも再発によって無効であることを確認している。近藤誠氏が前掲書で「一般に患者・家族は、いかがわしいものであればあるほど、大金を支払わされている」と述べているのは至言である。

 米原さんはエッセイの中で「動物は病気になったら断食する」「飢餓状態におかれている人間ほど感染症にかかる率が低い」等々断食の効用について何度も述べている。断食で癌細胞が縮小し消滅するケースがあることを知らなかったとは思えない。断食は食を断つことだから原則として費用はかからない。
 西式健康法をもとに甲田光雄氏が実践している「甲田療法」は断食と生菜食で癌をはじめ様々な難病を治している。甲田氏は現代医学の医師でもあり、断食・生菜食療法は科学に則っている。甲田医師にとって医療は人助けであるから、最低限の費用しか要求しない。もちろんサプリメントの類を売りつけるなどということもない。
 甲田医師は著書で次のように述べている。「飢餓状態が長かった人間の体は飢餓状態に適応するようにできている。日本人は戦後10年以上経て、飢餓状態からの解放に伴い、高血圧、糖尿病、癌などの様々な生活習慣病に侵されるようになった」。
 甘いものが大好物で大食だった甲田医師は子どもの頃から体が弱かった。大学時代に肝臓病を患い、現代医学では治らないと実家に帰されたとき、西式健康法に出会う。断食で治癒したことから、それ以降断食・生菜食療法を自ら検証・実践し、80歳を越えた今も元気で活躍しておられる。

 夫は高血圧になったのがきっかけで甲田療法に出会い、断食・生菜食療法で完治させた。ところが、おいしいものを食べることが大好きで、体を動かすのが大嫌いで、規則正しい生活も大嫌いな夫は、再び不健康な生活に戻り弱っていた腎臓を悪化させてしまった。今は透析一歩手前の状態で、果物も魚も好物はほとんど食べられない。私は何でも食べられるけれど、食事以外特に何かを食べたいと思うこともない。
 私は夫と暮らし始める7年前まで、食事は1日2回で、肉・魚類はあまり食べなかった。酒も定休日以外、ほとんど飲まず、毎日肉体労働をしていた。精神的な悩みは深かったが、体は健康で体重も若いときと変わらなかった。食べることにそれほど興味がなかったのである。
 夫は私においしいものを作らせるには、まずおいしいものを食べさせなければと、ことあるごとに外食に誘った。「君のように禁欲的だと書くものも痩せてくる」などと言われ、いつの間にか大食するようになった。数年で体重は10キロ増え、五十肩などに悩まされるようになリ、白髪も増え、疲れやすくなった。
 食べることが好きな母と妹は糖尿病である。ある日、糖尿病の権威と言われる医師に診察を受けた妹が「家族に他に糖尿病にかかりそうな人はいますか」と聞かれた。「そう言えば最近姉がころっとしてきたんですよ」と答えると「そのお姉さんも危ないな」と言われたという。それを聞いたわたしは書棚にあった甲田療法の本を片端から読み、自宅で青汁断食を10日間やった。体調は劇的に良くなった。肩の痛みもなくなり、疲れやすさもなくなった。それ以後も青汁・玄米を主に小食を続けている。現在は朝9時前後に青汁を飲むだけで、昼は3時前後に玄米一杯と納豆、野菜の煮付け程度、おやつに練りゴマや蜂蜜、黒砂糖などを食べることもあるが、夕食は食べない。体重は元に戻ったが、それ以上 痩せることもなく、空腹を感じることもない。掃除や草むしりで一日中動き続けても、翌日軽い筋肉痛が出るくらいである。旅行や接待などで、青汁や玄米が食べられないことが続くと体調が悪くなるので、できるだけ早く青汁・玄米に戻すことにしている。これがもっとも自分に合った食事だからである。

 あんなに生きたがっていた米原さんはなぜ癌に最も効果があリ、苦痛もほとんどない断食を避けたのだろう。『旅行者の朝食」』という食に関する著書もある米原さんはおいしいものが大好きでよく食べ、よく飲む人だった。「食べられなくなることを何よりも恐れていたからだよ」と夫は言う。
 知的好奇心が旺盛な米原さんには読みたい本がたくさんあり、本を読んでいるうちに眠ってしまうので不眠症になったことはない、と述べている。才能や容姿に恵まれ、家族や友人に恵まれ、仕事を楽しみ人生を楽しむ術に長けている米原さんにとって56歳という年齢はまだまだ上り坂だった。
 米原さんは転移が明らかになった時点で最も信頼していた近藤誠医師に「すでに他に転移している可能性大で切っても切っても転移していく悪循環に陥りかねないのでメスを入れるのは好ましくない。抗癌剤はほとんど効かないだろう。癌が大きくなり、痛みが出てくる場合は、放射線で小さくするという手はあるが、、転移の可能性は排除できない」と診断された。彼女は「座して死を待つほどに達観していない」とまたもや必死で他の代替療法を求めていく。

 彼女には「座して死を待つほど達観」して欲しかった。そこで立ち止まって、なぜ癌になったかを検証することからはじめてもらいたかった。そうすることで癌に対する真っ当な向き合い方ができ、もっと穏やかに何年か長く生きられたかもしれない。そうすることで彼女の世界はさらに深く豊かになっていっただろう。

 甲田医師のもとには「座して死を待つ」しかなくなった癌患者が断食療法を受け入れ、その後何年も延命している例がたくさんあると聞く。

2007年9月12日 (水)

着地

 台風一過、今年最後の草むしり日和。書庫にしている家の庭からはじめる。この家の庭の南には堰が流れている。数年前から家の庭に接する部分から少しずつ、水が漏れているようで、庭の一部が湿原状態になっている。管理者に直してくれるよう頼んだ。何人かで見に来てくれたが、「どこも壊れていない、地中から湧き出ているのではないか」と言う。漏れはだんだんひどくなり、雑草の植生まで変わってきた。田んぼに水が流れなくなるほど漏れるまで待つしかない。
 今年の春、何人かが「田んぼに水が来ない」と言い出し、田んぼの水を落としたら堰を修理することになった。

 草むしりに行く度に、夫は「草むしりは君の趣味だ」と言う。「周りが農家だから草むしりしないと雑草の種が飛んでくると嫌がられるよ」と反論する。「勉強する時間はいくらあっても足りないのだから、草むしりはシルバー人材センターにでも頼めばいい」。確かに1日かかるけれどこんな狭い庭の草むしりぐらい人任せにもできない。前の家の住人は自分の庭の剪定した枝を家の庭に投げ捨てる。住んでいない家ほどきちんとしていないと庭はあっという間にゴミ捨て場にされてしまう。
 何よりも土に触れ絞れるほど汗をかくと心身ともにリフレッシュする。近くに筋肉痛に効く温泉がある。少し熱いけれど、時々水をかぶりながらゆっくり入浴すると気分は最高。近所に住む知人は「草むしりしながら、ああ、これが終わると温泉に入れる。この温泉に入りたくて草むしりするようなものよ」とまでいう。
 自然との関わりは田舎暮らしの最大の喜びであリ、体力の問題はあっても年を重ねるにつれてその喜びは深くなる。

 定年後東京から川風市に移住してきた夫妻がいる。夫は広告会社、妻はデパートに勤務していた。子どもはいない。戦時中3年ほど川風市に疎開した夫が、幼馴染がいるからと妻に一言の相談もなく決めたという。川風市街はかなり高い丘の上にある。10年ほど前、地元出身の政治家が市街地までエレベーターを設置しようとしたことがあるくらいだ。利権がらみであることが暴露されその案はつぶれたが、田舎の常でバスの本数は少なく市街地周辺で生活するには車は必需品である。夫妻が最初に家を建てた土地は風の吹き溜まりで雨が降ると土砂が流れ込むような土地だった。地元の人だったら誰も買わない土地である。不動産屋に抗議すると「今売らないと売れなくなるから」と言われた。バスの便も悪く、運転免許も車もないのでタクシー代が嵩んだこともあり、二年ほどで新築の家を売り、市街地に新たに家を建てて引っ越した。
 夫は終の棲家となる川風市を少しでも住みよい町にしようと市民運動に加わったが、この町では真の市民運動など成り立たないと思い知る。市民運動のリーダーに祭り上げられられている人物は、市民運動家の顔をした談合企業の手先である。市民運動家の顔をしている分、単なる談合のボスよりやり方があこぎで手が込んでいる。東京の大学を出たお嬢さんが田舎の素封家に嫁ぎ、酒びたりの無能な夫に苦労している、というようなシチェーションを触れ込み、川風市の「希望の星」に登りつめた。頭は良くないのだが、とにかく人を誑かす術に長けている。彼女の様々な嘘が明らかになっても、お人よしの田舎の人たちは信じようとしない。たとえ、偽善者であっても「希望の星」にしがみついていたいのだ。彼女の嘘を告発した彼は仲間だと思っていた人たちから疎んじられ、妻は彼らと町で会うと露骨に顔を背けられるようになった。
 「希望の星」のいかがわしさやその取り巻きの愚かさに即座に気づいた妻は夫のように彼らに深入りすることもなく、適当にあしらっている。彼女は田舎の人たちは都会の人たちに比べてやり方が汚いと言う。川風市やその周辺には直売所がたくさんある。近所の農家の人たちがそこで売れ残った傷みかけた野菜をたくさん置いていく。もちろん東京の菓子のお返しを期待してである。あるとき誰かが野菜を玄関にたくさん置いて行った後、すぐ別の農家の人が野菜を持ってきて、この野菜は誰が置いて行った、と聞いたと言う。傷みかけた白菜を20個も置いていかれ、毎日1個ずつ捨てに行ったこともある。こうした農家の人たちの小狡さ、薄汚さはすべて私にも思い当たることばかりだが、近所ということもあり、無碍に拒絶することもできない。
 東京のカルチャーセンターで歌舞伎文字まで習った彼女は川風には文化の香がないと嘆く。同じような境遇の移住者で親しくなった人が体が弱って娘の家に行ってしまった後は話相手もなく孤独に耐えている。こんな状況で自分がやっていられるなんて不思議だと言い、夫が死んだら川風市を引き払い、都会のマンションに住むと宣言している。

 川風市が開発した高原で10数年以上もペンションを経営している友人は川風市はペンション経営者を公募で集めたのに「よそ者」扱いで、最近までごみ収集もせず、スクールバスすら出さなかった、と言う。どんなに抗議をしても全く相手にされず、ごみの件は友人が業者の不正を暴いたことで、スクールバスの件は夫が教育委員会に捻じ込んでようやく解決した。

 土に触れたい、という思いがなければ、「川風超えれば別世界」のこの町に都会からきた「よそ者」がうまく着地するのは、相当難しい。
 

2007年8月31日 (金)

希望

   不登校や引篭りやニートや障害者を支援するNPOを運営している友人が「ペシャワール会」のボランティアとしてアフガニスタンで2年間井戸掘りを続けた28歳の青年を連れて遊びに来た。高専卒業後東大大学院の丹下健三が創設したゼミで「都市工学」を学んだ彼は実家の農家で無農薬で米や野菜を作り、鶏を飼い、友人の弟子として大工修行中である。チョムスキーに深く共鳴している彼はチョムスキーの思想を研究している夫と話がはずんだ。
 

 「ペシャワール会」の人たちは米軍の護衛を拒否し、アフガニスタンの貧しい人たちに寄り添っている。食事も現地の人たちと同じものを食べる。朝から油炒めというメニューは日本人の体には堪えるようで、彼も栄養失調になり、1週間仕事を休ませられたという。高給が保証されている青年海外協力隊と違い、報酬は国民健康保険と年金の掛金のみである。ボランティアの半分は2年間の任期の途中で帰国してしまう、という。
 

 アフガニスタンは灌漑設備が不足し、農業で生活に必要な収入を得ることは難しい。一緒に働いている人たちが乾燥に強い芥子を作ると言っても、自分には止められない、と彼はいう。戦争でも起こらなければこんな生活を変えるチャンスはない、というほどアフガニスタンの貧しい人たちを取り巻く状況は厳しい。
 しかし、アフガニスタンより物質的にはるかに豊かな日本にもアフガニスタンと同じように戦争が起こって欲しい、と考える人たちが出てくるようになリ、増え続けてもいる。何より戦争は資本主義経済を活性化する。増え続けるニートや引篭もりの人たちが兵士の供給源となる。アメリカの例でもわかるように戦争に行くのは貧しい若者である。一定の兵役を生き延びた若者が「戦争請負会社」の社員になれば最低でも1日十万円が保証される。ただし、命の保障はない。

 アフガニスタンで自給自足の大切さを改めて学び、「楽々1億円稼ぐ方法」のような本がベストセラーになるなんて考えられない、という彼はまたアフガニスタンに井戸掘りに行くつもりだという。金や物をただ送るだけでは有力者の懐が潤うだけである、現地で共に汗を流すことではじめてアフガニスタンの人たちの生活を向上させることができるという。

 友人は彼のような考え方・生き方が今の日本に一番欠けている、今の職業教育は公務員になるか企業に就職しなければ生きられない、という選択肢しか提供していない、その結果、大量のニートや引篭もりの人たちを作り出してしまった、という。公務員になれなくて自殺した校長の娘を支えきれなかった、という痛みを持っている友人はニートや引篭もりの人たちのために新たに職業教育のNPOを作るつもりだという。

 

2007年8月26日 (日)

逃げられた!

 去年の秋だった。ジムに行く前、スーパーのレジで財布を開けると昨日入れておいた1万円札がなくなっている。おかしい、昨日の夜、確かに入れておいたのに。瞬間、盗られたんだ、とようやく気がついた。
 2日前、新しくできた直売所で買い物をした。夜家計簿をつけるため財布を開けるとおつりの7千円がなくなっていた。朝、銀行で下ろして入れたばかりだ。直売所は混雑していたのでおつりをもらい忘れたのかもしれない。電話で確かめてみたが、そのような事実はなかった。記憶を辿っていくと、直売所の後生協に寄ったときすでになかったことに気づいた。生協にも確かめてみたが、売り上げの計算はあっていると言う。どこかに落としたのだろうと諦め、新たにお金を入れ、残金を確かめた矢先だった。
 盗られた場所はジムしかない。3月半ばから夫の健康管理のため、夫婦で毎日ジムに通っている。ジムの風呂場に「盗難防止のため、ロッカーの鍵は浴室に持って行きましょう」と大きく書かれた紙が2枚貼ってあったことを思い出した。それを見ていながら、面倒くさいという思いもあって、鍵は脱いだ衣類の間に入れておいた。どうせユニクロのTシャツとジーンズしか入ってないんだから誰も私の着衣かごになど目をつけないだろう、と決め付けていた。鍵がロッカーの財布に直結していることを考えなかった。
 ジムのフロントに話すと硬い声で「調べて見ます」と言われた。さらにマネージャーに詳しい話を聞いた。このジムは8年前にでき、経営は3社目だが、最初の会社から引き継がれてきた泥棒がいるという。その泥棒は53歳の3人の子どもがいる主婦で夫は小学校の教頭である。保育士だったが、盗癖がばれて解雇され、どの職場も長続きしないという。状況から見て、犯人は彼女としか思えないのに、頑として口を割らないので警察でもどうすることもできない。彼女の夫も妻の盗癖を知っているのではないかという。彼女がチェクインするとジムのスタッフに緊張が走るという。
 ジムでの被害は現金と靴。財布ごと盗むのではなく、5千円とか1万円とか財布の中の現金の1部だけを盗むのでなかなか被害に気づかない。ジムの後、買い物に行ったとき、お金が足りないことに気がつき、ATMに行って下ろしたことが何度かあったことを思い出した。一瞬おかしいな、と思ったが、財布にいくら入っているかなど正確に数えたこともなかった。せいぜい1万円くらいの誤差だったので、どこで使ったのか思い出せないのだろうくらいに思っていた。たまたまお金を入れたばかりのとき、立て続けに2度もなくなっていたので気がついたのだ。
 翌日、その泥棒が誰か教えてもらった。とても年齢には見えない、あどけないような顔をした女だった。思い当たる節はあった。当日直売所で会って挨拶したことも思い出した。彼女とは受けているレッスンが同じこともあり、風呂場で一緒になることが多かった。昼のジムの風呂場は比較的空いているが、使えるシャワーは3つしかない。彼女はシャワーがどんなに混んでいても、長時間かけて一心に肌を磨いている。なんて非常識な女だろうと思い、自分から口を利くことはなかった。
 3ヶ月くらいたったころ、風呂場で2人になったとき、彼女が突然話しかけてきた。「ご主人の具合はいかがですか」。それから時々、レッスンの内容やインストラクターのことなどを話しかけてくるようになった。その頃からだ。財布からお金が消え始めたのは。間抜けな私は彼女の格好のカモだったのだ。
 彼女は春頃までは夜の時間帯にジムを利用していた。被害が相次ぎ、警察を呼んでも警官はジムのスタッフの指紋や足型を採っていくだけで何の解決にもならなかったという。刑事として警視長にまで上り詰めた夫の友人は言う。「俺ならその泥棒を落とせるけど、川風の警察じゃ無理だろう。大体泥棒が捕まるなんてのは運がいいとしかいえないんだよ。今の警察が泥棒を捕まえてくれるなんていうのは思い込みに過ぎないんだよ」。
 夜の時間帯にジムを利用する人たちに犯人の目星がつき始めた頃、彼女は我々と同じ昼の時間帯に移ってきた。他にも被害者は増えつつあり、3万円盗られた人もいる。彼女はまだ私が被害に気づいたことに気がついてないようだ。
 夫は一計を案じ、マネージャーの了解を得た。防犯ベルを買ってきて私のバッグの底に縫い付け、ベルについている紐を財布に繋いだ。財布を開けようとすればベルが鳴る仕掛けである。ベルが鳴ればマネージャーが駆けつけ、すぐに警察を呼ぶことになった。
 私は彼女の様子を観察し始めた。他の人たちと明らかに違う行動のひとつは使用するロッカーの場所を頻繁に変えることだった。私も含めてジムの会員はどのロッカーを使うか決めている。目当てのロッカーが塞がっていれば前後のロッカーを使う。誰がどのロッカーを使うのか大体決まっているのである。彼女だけが一定しない。目当てのカモの近くのロッカーを使うようだ。彼女は私のすぐ近くのロッカーを使うようになり、時には私がよく使うロッカーも使うようになった。もし現場を抑えられたら、拾った鍵を自分の鍵と間違えたと言い訳するのだろうか。かつて彼女が自分が使っているロッカー以外の鍵を持っていたので、マネージャーが問い質すと拾ったと言い張ったという。
 着衣を入れている籠が時々荒されるようになり、脱いだ衣類の間に入れておいた鍵がぽんと衣服の上に乗っていることにも気がつくようになった。タイミングが合わなかったのだろう。非常に用心深い。この用心深さで今まで、危ない橋を渡ってこれたのだろう。
 彼女がジムをしばらく休んだことがあった。風呂の中でヨーロッパに行っていたと他の会員に話していた。私から盗んだお金も旅行に貢献したのだろう。

 この春から彼女は再び夜の時間帯に戻り、私と会うことはなくなった。ほとぼりが醒めた頃、また昼の時間帯に来るようになるのだろうか。風呂場の更衣室で鍵を着衣の間に入れている人はまだいるし、ロッカーの鍵を閉め忘れる人もいる。「大丈夫よね、ここは。会員しか入れないんだから」と言いながら。

2007年8月17日 (金)

竹林

 我々が最初に手に入れて住んだ家は市街地から車で20分の距離にある。水車小屋を営んでいた家族が廃材で建てた家だ。谷底のような場所にあり、日もろくに差さず、道路からも見えない。北は竹林でその下を1級河川の清流(生活廃水が流れ込んではいるが、岩魚などがつれる)が流れ、西は川に沿って雑木林が続いている。
 夫はこの家を「幻豹庵」と名づけ、竹林の賢人にでもなるか、と言った。8年も空き家になっていたので、住むにはかなりの補修が必要だった。大工は北の台所の窓に厚い曇ガラスを入れた。夫は即座に透明なガラスに変えるように行った。「この家のご馳走は北の竹林の眺めなんだよ。それが見えなくなったら駄目じゃないか」。大工はあきれ顔で言った。「でも透明なガラスとこのガラスでは冬の温度が5度くらい違いますよ」。夏の暑さが残っている秋口だった。夫にはその言葉にどれほどの重みがあるのか理解できなかった。
 冬の寒さは凄まじかった。泥壁1枚で隙間だらけの家の部屋の温度は外と変わりがなかった。学校の教室用という大きな石油ストーブを入れたが、暖かいのはストーブの側だけで、部屋は暖まらなかった。囲炉裏の下からも冷たい風が入り込むので練炭を焚いた。一晩中つけても何も問題がなかった。「風流とは寒いもんだと知ったよ。この家にいたら寒さで死んでしまう」と夫は音を上げた。3年前に手ごろな家が見つかり早々に引っ越した。今は書庫になっている。
 

 8年間放置されていた垂直に近いほど急な崖にある竹林は鬱蒼としていた。竹の子が出るころは取材で出かけることが多く、帰宅すると泥壁の隙間から若竹が容赦なく家に入り込み、庭まで竹林になリ、清流も見えなくなっていた。私は竹切り用の鉈を買って来て崖を上り下りしながらやたらめったら振り回した。竹は硬く10本ぐらい切ったところで腕が腫上って痛くて動かせなくなった。農家の人に「竹は出たばかりなら柔らかいから8月ごろまでは簡単に切れるけど、古い竹はチェンソーででも切るしかないよ」と言われた。人を頼んで、余分な竹をすべて切ってもらい、風通しを良くした。
 竹の種類は真竹で竹の子が出るのは7月いっぱいだということがわかった。去年は5日おきぐらいに竹の子をとりに出かけ、食べきれない分は若い隣人にあげた。調理法を知らないと言うので教えてあげたら、とてもおいしかったと言われた。
 今年も7月に入ったらたくさん取れた。食べきれないので、通っているジムに持っていった。「竹林をお持ちなんですね」と言われ、「直売所で売っているのは硬いけど、戴いたのは柔らかくてとてもおいしかった」と感謝された。筍は鮮度が命である。取立ての筍はあく抜きの必要がないほどだ。それからも「朝取り筍だよ」と分けてあげると感謝された。
 

 ようやく竹林の恵みに感謝できるようになると、荒れ放題で放置されている竹林が目につくようになった。筍を取って調理する人が少なくなるにつれ、調理法を知らない人も多くなった。必要ならあく抜きしてパックされているものを買えばいいのだから。かつて日本人は竹を最大限活用し、活用することで管理してきた。しかし、今はざるや籠などの竹製品は東南アジアから安く手に入り、物干し竿などもステンレス製のものが安く買える。竹林など必要がなくなり、手入れする人もいなくなった。その結果、畑に筍が進出するなど被害も多くなってきている。近所で竹炭を作っている「炭師」の知人は「うちの竹を使って、とよく言われるけどとても使い切れなくて」と言う。竹炭は消臭・防湿財として優れている。竹を建材として使う大手の建設会社も現れるようになった。

 7月22日から取材で半月留守にした。帰るなり竹林に直行した。見逃してしまった筍が天高く聳えている。鎌で簡単に倒せた。
 

2007年7月19日 (木)

掃除

 毎日新聞日曜版に連載されている心療内科医海原純子さんのエッセイ「一日一粒 心のサプリ」に掃除をテーマにしたものがあった。あまりに身に当たる内容だったので切り抜いて夫に読み聞かせ、最後の部分「散らかりすぎて・・・話し合おう」の部分には赤いマジックで太い傍線を引き、書斎の襖に張っておいた。

 「結婚半年目のAさんは夫と大ゲンカ、原因は掃除である。夫は大学の研究室勤務。朝は早くから出かけるし、夜もかなり遅くなり、帰宅後も机に向かうことが多い。久しぶりの休日で夫が買い物に行った合間をぬって、Aさんは夫の部屋の掃除をすることにした。床に書類が散乱しており、掃除機をかけられず、気になっていたのだ。
 夫は自分の部屋は自分で片づけるから、と常々言っている割には掃除しているのを見たことがない。忙しいからその時間はないはずだ、と考えたAさんは、床の書類をまとめて掃除機をかけた。Aさんは子供のころからきおれい好きで、ものがきちんとそろえられてないと仕事がはかどらない性格なのだ。
 これで夫も喜んでくれるだろうと思っていたところ、夫の帰宅後大ゲンカになってしまったという。夫は床の上に書類を散乱させていたのではなく、「分けて置いてあった」そうで、すべてをまとめて一緒にされたことで仕事がまたやりなおしだと激怒。Aさんも「それじゃあ、汚くて掃除機がかけられない」と反論し、冷戦が続いている。
 掃除をめぐっての冷戦はしばしば起こる。なぜそうなるかというと、それは「分類」の問題であり、片づけられると自分の思考の流れが妨害されるからだろう。Aさんにとってはただの書類に見えるものが、夫にとってはすでに分類されたものであり、その思考が妨げられたので激怒したのだ。
 Bさんは、忙しい時にお掃除サービスを頼んだら、食器や電気製品がいつもと違う場所にしまわれていて、手順が乱れ、以来頼んでいないという。人の思考と分類は家族でも同じではなく、わからないもの。掃除や片づけをどこまでするのか、しっかりコミュニケーションしておくことが大切。散らかりすぎて家族に迷惑をかけぬよう、夫に責任を持ってもらう事も話し合おう」。

 わたしはAさん、Bさんと同じ性格で、掃除や片づけは徹底的にやらないと気がすまない。わが家には畳の部屋は寝室しかない。部屋の仕切りは引戸がほとんどで冬以外は書斎も台所も応接間も開け放している。片づけのコツは先ず第1に不要なものは買わない。買う前に管理するエネルギーを考えるのが習慣になっている。第2に使ったものは必ず元の場所に片づける。これだけで家は散らからない。その上で、最低1ヶ月に1回は家具まで動かして床のワックス掛けをやる。ワックスはドイツ製の天然成分のものだ。結構いい運動になり、心身がリフレッシュする。同時に夫が散らかした本や書類の整理もする。このとき、探し物が見つかったりすることもある。思いがけないものが思いがけない場所から出てきたりと、探し物も悪いことばかりではないけれど、時間がいくらあっても足りないわたしは探し物に奪われる時間が惜しい。
 わたしと正反対の性格の夫は散らかし放題で、本でも辞書でも開けたまま次々に積重ねておく。そうすることで自分の世界を広げていくのだという。そういうことは理解できるので、あまりにも積み重ねすぎたりして倒れたりする危険が出てくるまでは黙っている。
 夫は掃除は君の趣味で自己満足だという。夫がいるときに掃除をすると嫌がるし、足手まといになるので、趣味の将棋などに出かけたときにやる。夫のものはメモ一枚捨てず、帰ってきた夫に、何をどこに片づけたか、逐一報告しながら確かめさせる。夫はものの位置が3ミリでも違うとどこに何をおいたかわからなくなると言い、パソコンやプリンターの調子が狂うと「君が掃除をしたからだ」という。

 それでもわたしたちは同じ書斎で仕事をしている。夫は片づけられるのは嫌だから別の部屋で仕事をすると言うが、実行に移したことはない。気分転換にわたしに話しかけたりできるからだ。わたしも暖房費のためにも一緒の部屋がいいと思っている。

 最近、夫は「床にいい艶が出ているね」と言う。「大掃除してワックスをかけているからよ。掃除をするのは嫌がるじゃない」と言うと「結果には満足しているんだ」とのこと。さらに最近は掃除の後、温泉に連れていってくれる。さらに最近は掃除を始めようとすると「手伝おうか」とまで言うようになった。足手まといになるだけだから、と断っているけれど、掃除の楽しさを教えてやるべきなんだろうな。

2007年7月14日 (土)

感謝!

 今の今まで、機械(正確には、の取説〔取扱説明書〕)=恐怖だった。50を過ぎて夫の下で物書き修行を始めたわたしには勉強したいことも、読みたい本も、家事もたくさんあり、取説との格闘に割く時間はないと思っていた。夢中になっていたある作家は「ワープロではなく、手で書かなければならない。手で書くのがいちばんいい」と強調した。そういう発言をする作家は他にも何人かいた。(さすがに今はそのような発言を見ることはなくなった)。取説恐怖のわたしはパソコンから逃げる理由に彼らの言葉を引用した。夫は即座に反論した。「彼らはワープロやパソコンを使った上で言っているのではないだろう」。

 ある日、夫が行った。「2人でパソコンを習いに行こう。いい先生がいるんだ。もう決めてきたよ。3ヶ月でいいから」。抵抗する暇はなかった。

 日本で初めて「マージャン・ソフト」を造ったMさんはパソコンの草分けでもある。若い頃は、科学者として生きるか、パソコンソフトの開発者として生きるか迷ったこともあったという。結局、大企業で科学者として生きる道を選ばれ、定年後子会社の社長になった。そこで年配の社員にパソコンを教え、大変感謝されたことが再びパソコンに関わる転機となった。70歳で社長を退いたMさんは高齢者のためのパソコン教室を開いた。たいていの高齢者は若い人たちのようにすんなりとパソコンに溶け込めない。巷にあるパソコン教室や自治体主宰のパソコン教室の若い先生たちには高齢者の気持ちや感覚がつかめない人が多い。70歳を過ぎて、自治体主催のパソコン教室に通ったNさんは「あんな先生に教わるぐらいなら、孫にお金を払って教えてもらったほうがいい」という。

 Mさんは生徒たちの個性やレベルをしっかり掴み、あくまでも優しく丁寧に教えてくださる。フリーズしたくらいで飛び上がるほど驚き、すぐに電話をかけてしまうようなわたしにもその度に誠実に対応してくださった。普通の生徒さんの倍もかかって2年で卒業したわたしだが、その後も何かあるたびに無料でサポートして戴いている。このブログを開くときも多くの予期しなかったトラブルが起こり、その度にサポートしていただいた。

 トラブルが起きるたび、Mさんやサポーセンターに直接聞くこともできず、夫を通して聞いてもらっていたわたしだが、夫に助けてもらいながらも、ようやく自分でMさんやサポートセンターに聞くことができるようになった。「パソコン自立」に向かって半歩踏み出すことができたのである。

 Mさんは「パソコンは聞けば3秒の世界です」と言われる。Mさんにはどれだけの時間をプレゼントしていただいただろう。

2007年7月11日 (水)

川風日記

はじめに 

 団塊といわれる世代の定年退職が始まった。定年後、田舎暮らしに憧れる人たちは少なくないようである。県庁所在地の大きな書店には「定年帰農」コーナーがあり、かなりの本が並んでいる。しかし、20数年前、川風市の隣村に居を定めた友人のドイツ文学者は断言する。「都会の人たちの多くが田舎暮らしに憧れているけれど、憧れだけではやっていけない」。確かに豊かな自然、新鮮な食物、濃密な人間関係等々、田舎暮らしの素晴らしさばかりが強調されていることは否めない。

 我々が北関東にある川風市に住み着いて8年になる。山に囲まれ、近隣の市町村とは朝風峡谷で隔てられ、40年前までは人馬がようやく通れるほどの隧道があるだけだった。市街地を少し外れると江戸時代の「五人組」制度の名残が残っているところすらある。人口は5万人。県庁所在地まで車で1時間、電車で40分、東京までは新幹線で1時間ちょっと、上野までは在来線で2時間ちょっと、高速道路を使えば練馬まで1時間ぐらいである。交通は便利になったが、「朝風越えれば別世界」という言葉が今も実感できるところである。

 東京や近隣の市町村を経てここに移ってきた我々にとって、川風市での日々はカルチャーショックの連続である。

その他のカテゴリー

2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック